小説 川崎サイト

 

里歩き

川崎ゆきお


 最近見知らぬ老人が町内を歩いている。住宅地だ。不審者ではない。身なりはカジュアルだが、リュックを背負い、アウトドア風ファッションで身を固めている。里山散策を楽しむ老人にも見えるが、この町内には、そんな山はない。当然観光地でもなく、ただの住宅地。緑多く自然豊かな町でもない。森や大きな公園も存在しない。また古い建物が残っているわけでもなく、戦前にあったものが多少残っている程度で、古民家とは言えない。
 当然その町内にも老人が多いのだが、その人達が散歩をしているのではない。近所の人なら分かるだろう。見掛けない人達なのだ。日により、二人か三人、いずれも単独。一人歩きで土日と平日の差はない。
 ある人は家の前の鉢植えに咲いている花を見付けたのか、一直線に近付き、それを見ている。花が好きなのかどうかは分からないが、他のものではなく、花を見ている。しかも繁々と。その時間は五分ほどだが、これは通行人が立ち止まる時間としては長い。余程珍しい花ならともかく、ありふれた花だ。
 また、別の老人は石碑を見ている。杭のような石柱で、傾いており、何やら刻まれているが、古いものではない。レプリカの道しるべで、旧名で左何里右何里と刻まれている。レプリカでも古くなると、それらしく見えるのだが、本物ではないので、大事にされていないようだ。それを繁々と見ている。古い言い方の地名なので、今はどの町に当たるのかが分かりにくし、また町や里だけを指しているとは限らない。お寺の名だったりする。
 そういう人が数人、徘徊しているのだが、見るようなものがないのに、観光地のようにうろついているのだ。おそらくこの人達は観光名所や史跡など、おおよそのところはもう回った人達で、ネタがないので、こういう何でもない町内を物色しているのかもしれない。ただ、ユニフォームのように同じような服装だ。リュックも本格的なものだが、大して詰めていないのか、ぺしゃんこだ。軽登山、ハイキング以下の里山散策程度。そしてそういう都市部周辺の里山は殆ど踏破したのかもしれない。それで平野部の内側へ入り込んでいるのだ。外野ではなく内野へ。
 しかし、何かを発見したときの態度がわざとらしい。いかにも驚いたような顔とジェスチャー。これは不審者よけのためだ。不審者を避けるためではなく、不審者と思われないための仕草なのだ。私は、これを見て感動してますと言わんばかりだ。不審ではなく、しっかりとした行いを、分かりやすい振る舞いをしている最中ですというのを見せたいのだろうか。年を取ると、老いた猿のように、こういう芝居が出来る。そして、やっているうちに、こういう分かりやすすぎる臭い芝居は本人だけは楽しいため、ますます本気になってくるようだ。まるで猿楽だ。
 しかし、見るべきような、驚くべきようなものなど何もない。庭先から出ている松の枝を愛でたり、ブロック塀が木の幹を避けて、そこだけ木のために囲っていなかったりとか、その程度の話なのだ。
 この先、道狭し、通行注意などの貼り紙を見ると、本当かどうかを確かめるため、どの程度の狭さなのかと見に入る。道幅ではなくカーブが急なのだ。これは曲がれないだろうということを確認し、大きく頷いて納得した振りをする。当然、誰かに見られていることを意識しての仕草だ。ここは狂言師の仕草に近い。そういう分かりやすい芝居をすれば、安全なのだ。
 ただ、これらの老人散歩人は、地元の老人とすれ違うのがいやなようで、遭遇する直前に、別のものを発見したような顔をし、さっとUターンしたり、枝道に入るようだ。
 当然、同類と出くわすと会釈する。これは山道ルールだ。
 仕草は大袈裟に、これがルールだ。
 
   了




 


2015年5月16日

小説 川崎サイト