小説 川崎サイト

 

忙しい日々

川崎ゆきお


 時田は暇になってから忙しくなった。職場を去り、もう行く勤め先もないため、暇を持て余すのではないかと心配したのだが、そんなことはない。
 これは忙しさ、暇さ、についての印象ではないかと思えた。つまり、仕事をしているときは退屈だった。いやいやながらでもやらないといけない。だから無機的にこなしていた。これが実は退屈なのだ。時間は止まったように経たない。それでも途中で別のことをやるわけにもいかず、退屈さを我慢しながら、時間が来るまで仕事をする。長い長い一日だった。
 好きなことをしているときは時間が経つのは早い。そして、やることが細々とでき、それらを全部やるとなると、暇どころか忙しくて忙しくて仕方がない。一日があっという間に経つ。
 退職すると、暇を持て余すというのは時田に限っては嘘だ。働いているときのほうがのんびりとしており、退屈だが悠々と過ごせた。そこには自分の意志や好みなど入り込む隙間がなかった。これは時田の職種が、そういう作業だったためだ。いくら極めても、名人、達人になるようなものではなく、また、尊敬されるものでもない。技能を磨くとかも必要ではない。だから、暇なのだ。残っているのは職場での人間関係だが、これも数いる敵というか、ややこしそうな人は追い出したし、ややこしい上司も、同僚が集まり共同戦線を張り、罠に填めて追い出した。そのときは忙しく、暇つぶしにはもってこいだった。
 職場は平穏になり、働きやすくなったため、退屈になった。また、妙な同僚や上司が来れば、もっけの幸いなのだが、幸いというか不幸というか、トラブルはその後起こらなかった。
 やはり敵がいないと退屈するのだ。そして、そのときは向こうからやってくる敵だ。敵がいなくなれば、敵を作れば退屈は紛れる。しかし、同僚のどの顔を見ても、敵になるようなタイプではなく、悪役として、憎まれ役としては役者不足だ。
 そして、定年まで大過なく過ごせたのだが、退屈で仕方がなかった。退職すれば、もっと退屈な日々になると心配したが、昔の映画やドラマなどを見ていると、忙しくて仕方がない。殆ど見ないまま録画していたテープが部屋の端から端、天井まで積まれている。それを横にして、取り出しやすいようにするため、棚を買った。そういう作業だけでも結構忙しいのだ。
 それらのビデオテープはネット上にはない。何でもないような番組を録画しているためで、ただのクイズ番組だったりする。これはあとで見ようと思いながら、そのままになっていたものだ。
 最近はデジタルテレビを買ったとき、DVDなどで録画したり、さらに大容量のものを買ってきたりしている。テレビでやっている映画は殆ど録画している。これを見るだけでも大変だ。
 ただ、最近のものではなく二十年前三十年前のものを見るほうが楽しい。これもテープがだめになるのか、賞味期限があるため、早く見ないといけないので、優先的にそちらを見るようになっている。そのテープを、デジタルファイルになるようダビングしながら見ていたりする。二回見ることは希だが、整理する楽しさがある。
 時田はこれで忙しいのだ。暇どころか、時間がない。さらにネット上での交流サイト、昔の会議室のようなサークルに参加した。これは古い映画などを語る会だ。そのため、出来るだけ多くの映画を見ている方が、その場では威張れる。見ましたか、と聞かれたとき、見ました。知ってます。他の作品もこれだけ知ってます、と答えたい。
 さらに最近は海外の連続テレビドラマを見るようになり、時間がいくらあっても足りない。
 暇で退屈どころか、忙しくて仕方がない。そのうち飽きるだろうと思っているのだが、ついつい見てしまう。
 寝る間も惜しんで熱中したためか、時田は体を壊した。食事が非規則で、きっちりとしたものを食べていなかったし、運動もしていない。目も腰も首も痛く、痔にもなった。
 やはり忙しいと、ろくなことはない。退屈さを我慢しながら、淡々と勤めていた頃が、やはりよかったようだ。
 
   了

 



 

 


2015年5月25日

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