小説 川崎サイト

 

妖怪博士の裏研究

川崎ゆきお


 妖怪博士はたまにフィールドワークをする。机上の人、安楽椅子タイプの人だと思われがちだが、そもそも妖怪博士なので、野に出て妖怪を探すのが本来だ。だから、その本来をやるだけのことで、珍しいことではない。
 野に出て妖怪を探す。これはピンポイント過ぎる。川から消えていた川魚やエビガニやカエルを探すようなわけにはいかない。そもそもいないためだ。例えばツチノコがそうだ。あれだけ探しても出てこない。見付からない。最初からいないためだろう。
 ただ、妖怪博士は山や森に入り込み、そんな自然物を見ているわけではない。気の精とか水の精とかの妖精ものではない。自然が妖怪を生んだとは考えていないからだ。
 妖怪は物怪とも言う。その物とは、人が作ったような物だ。道具とか器物だ。猫も年を経れば妖怪化するらしいが、それらよりも狐や狸の方が圧倒的に多い。これは年を取らなくても化けたり化かすだろう。
 妖怪博士が妖怪を探しているのは、妖怪が目的ではない。妖怪の背後にあるものだ。ただ、妖怪化していないものもあり、そういうときはフィールドワークをする。これは気候がよくなったので、外に出てみたくなったようだ。
 野山に人工物がある。それもかなり古い時代のものだ。山の神などがまだ信じれていた時代の遺物のようなものは、それなりに正体が分かっている。山の民との交流場所跡だったり、境界線を示す石だったりする。
 こういうのは妖怪とは関係なさそうだが、天狗や鬼が何者かと考えると、妖怪的な絵が出て来る。ただ、その妖怪の向こう側にあるもの、そういうものを見ていくのが、妖怪博士の趣味だ。妖怪のカテゴリーを越えてしまうため、妖怪博士の専門外となるのだが。
 野山や村里に残っている遺物は、宗教的なものが多い。ただ、神道か仏教かが曖昧と言うより、どちらにも属していないようで、どちらにも属しているものがある。土俗信仰、民間信仰もそうだ。これは神様を拝んでいるのか、仏様を拝んでいるのかが曖昧で、その物自体を拝んでいる。他の何かの下にあるものではなく。
 その土地だけにしかいない神様もいる。何かの亜流だろうが、その先になると、元が何かよく分からないこともある。このあたりが妖怪博士は得意なのだ。本当は本流なのに亜流や脇役にされた神とか。
 また、忌み嫌われている祟り神のようなものもいる。畏怖すべきものほど神通力があるのか、信仰の対象になるが、それがローカル過ぎると、ブランドがないため、何かよく分からないマジナイのようなものになってしまう。
 そういうのは石仏などにも見受けられる。それは仏さんやその眷族のようなキャラクタなのだが、そっとそこに別のものが入っている。どこかに痕跡を残しているのだ。それは彫った人でも気付かないような暗黙的な何か。
 こういう私的な憶測は、流石に妖怪博士は人には語らない。それにその先は闇で、何の根拠もないためだ。
 野山に残る巨石、奇岩、そういうものは自然の凄さを思わせるが、そうではなく、人がそこに託す何かが問題なのだ。人はそこに自然ではないものを見る。それは神と言うより、何等かの文化なのだ。人為から来たもの、しかもかなり古い。
 仕草やタブーが慣習化し、その中に少しは残っている。その受け皿がまだあるためだろう。
 これは神秘主義ではなく、ある文化を引き継いでいるのではないかと考える。例えば日本式の仏教などがそうだ。何が加わり、何が省かれ、どんな風に解釈したかだろう。受け入れやすいように。その受け皿を妖怪博士は見ているのだ。
 里での妖怪博士の好みは、地蔵盆だ。そういう祠は古い町並みのあるところなら辻辻にあったりする。この密度が凄い。そして今も現役だ。そこには地蔵さんが入っているのだが、果たしてそうだろうか。これは仏でも神でもいいのだ。そういうものを拝んでいるわけではない。
 これは信仰ではなく、寄り合いなのだ。
 そういった地蔵盆の祠などを覗くのが妖怪博士の癖で、実はそこに異形のものと出合う楽しさがあるようだ。それは仏顔ではない。
 神仏の形を借りているが、実際には別の何かだが、明王に踏まれている小鬼などの方に、実は本来のものがあったのかもしれない。逆転しているのだ。
 土着信仰、迷信と言われているものの中に、妖怪博士は本来のものを見ようとしている。妖怪にされてしまう前の姿とか。
 ただ、この研究、まだ妄想中なので、黙っているようだ。
 
   了
 





2015年6月28日

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