小説 川崎サイト

 

看板娘

川崎ゆきお


 三村は久しぶりに駅前に来てみた。その日、自転車でウロウロしているとき、煙草が切れたので、駅前の煙草屋の前で自転車を止めた。三村はカードを持っていないので、自販機では買えない。そんなときはコンビニなどで買うのだが、その近くのコンビニはさっき入ったばかりだ。新製品のミルクコーヒーが出ていて、それを買っている。少し高いが、昔のコーヒー牛乳の味がするらしい。風呂屋で飲んだコーヒー牛乳やフルーツ牛乳が懐かしい。また駅の売店でもコーヒー牛乳をたまに買って立ち飲みしていた。これがミルクティーではだめなのだ。
 その煙草屋はお婆さんが窓口にいた。看板婆だ。その婆はもう亡くなったのか、若い目の婆が座っている。達磨のように。先代の婆の嫁か娘だろうか。顔がまったく似ていないので、嫁かもしれない。しかし、先代も嫁だったはずだ。この先代のとき煙草屋となっている。実際には普通の家だ。偶然駅に面したところに家の窓がある。それを改築して、煙草屋にしたのだろう。もう煙草屋など流行らない時代で、自販機の時代になっていた。当然その店にも自販機は置かれている。
 この煙草屋が廃業しなかったのは先代婆の憩いの場だったためだろう。一日中駅前の狭い道を行き交う人々を見ることができる。すぐそこに改札と踏み切りがある。以前は電鉄会社の売店があったのだが、それが消えたため、煙草販売の商売敵が消えた。今はその売店跡に缶コーヒーなどの自販機が並んでいる。
 婆の煙草屋は煙草だけではなく、切手や収入印紙も売っている。すぐ前にポストがあるため、これも良い場所だ。ただ、煙草や切手の利益など大したことはない。しかし、何もしていないよりは収入になる。それで、先代婆が亡くなったあとも、嫁か娘が二代目看板婆を引き継いだのだろう。最初から二人とも婆で、看板娘ではない。
 ところが、三村が煙草を買おうと、窓を見ると、若い娘がいるではないか。これなら正に看板娘だ。
 三村は、この場所を通る機会は月に一度あるかないか。それに煙草屋の窓の中など覗いていない。滅多にここでは買わないためだ。前回買ったときや、通ったときには確かに達磨の婆がいた。その娘にしては若すぎる。だから、孫だろうか。
 その看板娘がどのタイミングで店に出ているのかは分からない。今日始めて見るためだ。
 三村は煙草名を言うと、しっかりと聞き取れたのか、さっとそれを出して笑顔で手渡してくれた。
 買うなら、ここだな。三村は心に納めた。
 そして、次に駅前に来たときは達磨婆で、あの娘はいない。やはり偶然その日だけ、店番をしていたのかもしれない。しかもワンタイム。
 次に前を通ったのは十日後。駅前方面へ行く機会がなかったためだ。
 すると、やはり達磨だ。
 丁度そのとき、人懐っこそうな小柄な老人が煙草を買っていたので、煙草屋の硝子窓が閉まったとき、看板娘について聞いてみた。
 小柄な老人は、ほぼ毎日、ここで買っているが、そんな娘はいないらしい。夫婦二人で暮らしているらしく、たまにお爺さんが店番をしていることはあっても、そんな娘は見たことがないとか。
 すると、幻の看板娘だったのかもしれない。しかし、三村が吸っている煙草の銘柄は分かりにくい名前で、孫が遊びに来て偶然店番をしていたのなら、聞き取れないと思うし、さっと出せないのではないか。
 三村は詮索するのをやめた。幻でもいい。幻覚なら煙草を受け取れないので、そんな看板娘が本当にいたのだろう。達磨婆が狐のように娘に化けたわけもないし。
 コンビニでバイトでもしている孫かもしれない。それなら煙草の銘柄は知っているだろう。
 いや、そういう詮索よりも、あれはときたま現れる幻の看板娘のままにしておいた方がいい。
 その後、三村は駅前のこの煙草屋へ寄る度に、それを確かめるように煙草を買っている。まだ、今のところ、再会はない。
 
   了


 


 


2015年7月4日

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