小説 川崎サイト

 

足袋

川崎ゆきお


 三島は足にフィットする靴下を買った。最初は買うつもりはなかったのだが、替えの靴下が劣化し、踵がすり切れたのか穴が空いている。その他にも靴下はあるのだが、妙なデザインがあり、パッチワークのように色目の違う生地を組み合わせているためか、裏側を見ると縫い目だらけで、これが痛いことがある。引っかかるのだ。これは靴下を履くとき、親指の爪がその糸に絡んで痛いときがある。生爪が剥がれるほど引っ張られるわけではないが。
 履き慣れていた靴下はゆるゆるになり、ただの袋のようになってしまった。
 靴下を買ったのは、セールをやっている特価台で見たからだ。安い物ではなく、しっかりとしたメーカー品だ。その中で一番高いのを買う。二足組だ。特に足にフィットする靴下を求めていたわけではない。能書きが書いてあり、歩く度にフォローするとかの文字がある。靴下だけで、そんなことができるのかと思うのだが、楽な靴がある。だから、履き心地のよい、疲れにくい靴下があってもおかしくない。きっと陸上競技選手などは、そういう靴下を履いているに違いない。靴も大事だが、靴下も大事だ。さらに能書きを読むと、足をサポートとある。歩く度にサポートとなっている。輪っかになったサポーターがある。バレーボールの選手が膝に巻いている絵が沸く。だから、この靴下そのものがサポーターのようなものかもしれない。
 しかし、実際に履いてみると窮屈でかなわない。締め付けるのだ。それだけでも痛い。どうせこんなものはそのうち緩くなるはずだと思い、辛抱して履いていた。
 しかし、履き方が悪いことに気付く。靴下のサイズが大きいのだ。サイズまで流石に見ていなかった。フリーサイズに近いはずだ。小さいより大きい方が楽で、三島の足のサイズは大きくないので、靴下のサイズにこだわる必要はなかった。大きい方が好ましいのだ。小さすぎるときついが、この靴下は大きいのにきつい。それでよく見ると、踵の位置が違う。アキレス腱あたりに踵の生地というか色目を変えたところがきている。深く履きすぎたのだ。それで、踵の位置に合わすと、今度は足の先が余ってしまい。靴を履くとここが重なって妙な具合になる。それで、中間に合わすことで難なきを得たのだが、やはり窮屈だ。
 いつも履いているゆるゆるの靴下は、袋に近い。足袋だ。そんなサポーター的な機能はないので、生地の方角、伸び縮みする方角を計算した縫い合わせ方になっていない。場合によっては踵を上にして履いていることもあった。薄いので分からなかった。
 足袋で三島は耳袋を連想した。意味はない。ただ、耳袋という言葉を思い出したのだ。これは奇妙な話を纏めたような江戸時代の本だろうか。噂話を耳で聞く。それを耳の袋に溜めたのだろうか。耳の記憶だ。
 それなら、足袋があってもいい。足の記録だ。今なら靴袋になるだろうが、やはり靴では袋の感じはしない。やはりゆるゆるの靴下が好ましい。足袋はタビだが、そうではなく、靴下の袋の足袋。
 三島は真夏でも外に出るときは靴下を履く。部屋では脱ぐが、外に出たときは必ず靴下を履いている。だから、その靴下の袋の記憶は、外を歩き回ったときの記録だ。これは電車でも自転車でも車でも飛行機でもいい。靴下を履いているのだから、そこに記憶が溜まる。
 三島はそれで、珍しい奇妙な出来事などを外で体験したことを書き溜めようと考えた。そのタイトルが足袋だ。
 しかし、これは三島にしか分からないタイトルだ。旅の記憶と、足袋(タビ)の記憶も重なる。
 では、靴下袋でいいような気がするが、それでは耳袋のイメージから外れてしまう。
 結局その足をサポートする靴下は、履くほどに緩んできて、普通の袋になった。
 
   了



 


2015年7月16日

小説 川崎サイト