小説 川崎サイト

 

憂愁


 夏の終わりがけ、松田は意欲的になっていた。涼しくなってきたので、頭が冴えだしたのだろう。これは良いことか悪いことかは分からない。何故なら、松田はこれといってやることがないためだ。従ってそれを強引に探すことから始めなければならず、これは動機としてよろしくない。必要に迫られていないためだ。
 毎年松田はこの時期、何かを始め、頓挫している。そのまま夏休みを続けていた方がよかったのではないかというような結果になる。
 本当にやらなければいけない家の用事、つまり家事があるのだが、これは誇れるようなものではない。洗濯が上手くなっても外部に触れて回るようなことではない。やはりそれなりに、何かをした人になりたい。洗濯も有為だが、もう少し外向きでの有為なことが欲しい。
 ただ、近所のボランティアとか、何かのサークルでの活躍はだめだ。何故なら損をする一方で、一円も入ってこないからだ。
 人様から金銭を頂く、しかも仕事をして。ただで貰うのではなく、有為なことをしたので貰う。その路線を松田は毎年夏の終わりか元旦早々、あるいは春先に考えるのだが、一度も続いたためしがない。だから、今回も分かっていそうなものだ。それを敢えてやるというのは、動機の問題だ。
 その動機とは、涼しくなってきたので、何かをやりたくなったため。これは真っ当なことで、その意欲は評価されるべきだが、目的がなく、動機だけがある。それが問題なのだ。これは浮遊霊のようなもので、こういう人と関わるとろくなことはない。だから、松田の新計画に巻き込まれて疲れ果てた人が結構いる。従って全く違う人と組むしかない。
 しかし、今回はネタがないので、計画の立てようがない。それで、計画の立て方から始めた。計画とは何か、それをどんな順序でやるのか、どのタイミングでチェックを行い、修正するのか、など、そちらの話になっていった。
 具体的なものがないのが問題なので、やはり目的を探すことが大事だ。しかし大事だと分かっていても、その大事なものがない。今まで思い付いたその大事なものは、殆どが大事なものではなかった。目的があることは大事だが、その目的が大事だものではなかったのだ。
 そこで松田はひねってきた。大事ではなく小事を。これなら大事なことではなく、小事なことなので、規模も小さく、周囲への迷惑度も違う。
 大事は思い付かないが、小事なら何とかネタが見付かった。しかも複数。だが、どれも今一つ興味が湧かない。それでは張り切りようがない。要は、張り切れるものが欲しいということなのだ。
 新たなことがふと思い浮かんだ。と言うことなら簡単だ。それが久しくない。この「ふと」が一番縁起がいい。つまり、もう縁起の問題になっているのだ。天啓のようなもので、これぞ天が与えし天職。そんな感じだ。ただ、天職なら、もっと若い頃からやっているだろう。昨日今日見付かるような天職は信用ならん。
 結局それで、一日、そういうことを思いながら過ごした。翌朝はけろっとしている。何をするのか決まらなかったのだから、後遺症も副作用もない。
 そして、その年も、何もしないままだったので、何かをしたときに比べ、被害が少なかったようだ。儲けもないが、大損もない。
 まだ、そういう時期ではないのだろう。そしてそれは永遠になかったりするかもしれない。
 秋先らしく、寂しい話だ。
 
   了

 


2015年8月22日

小説 川崎サイト