小説 川崎サイト

 

蚊のいない八月


「異変かもしれん」
「どうかしましたか」
「もう秋だね」
「そうです」
「蚊がいない」
「いるでしょ」
「夏にもいなかった」
「そうなんですか」
「真夏より、秋口の方がよく刺された。それが今年はない」
「気候は去年と同じですよ」
「ここへ越してからに十年になるが、こんな年は初めてだ」
「周囲が変わったからじゃないですか」
「それほど変わっていない」
「何でしょうねえ」
「蚊に刺されないから、蚊のことなど忘れていた。去年買った蚊取線香、ずっと同じ棚に缶のまま置いているのだけど、一度も使っていない。蚊がいないからだ。そして、蚊がいないことを忘れている。刺されて初めて蚊がいることが分かる。蚊のことなど普段は考えないが、ガラス戸を開けるときは用心するし、蚊が入ってくるので、網戸は閉めたままにしている。これは不思議と真冬でもそうだ。しかし、網戸を開けて、庭に出るときは蚊のことを少しは考えるが、これは癖だ。蚊が入るので、さっと開け、さっと閉める。蚊がいるものとしてね」
「はい」
「ところが今年は蚊のことなど一度も考えないままだった」
「良かったじゃないですか、刺されないで」
「刺す蚊は決まっている。いつも同じ種類だ。こいつが部屋の中に入り込むと、寝る前、五月蠅い。空襲だよ。顔を狙ってくるのか、耳元に近付いたとき、高い音を出す。叩き潰してやろうとして、自分の耳をはたいたりする。これが例年の行事だ」
「蚊の空襲ですね」
「一匹だ。そいつを退治すると、静かになる。そいつのためだけで蚊取線香を焚くのはしゃくに障る。もっと大量にいないとね」
「今年はそれがなかったと」
「しかし昨日、蚊に刺された。夕方前だ。網戸もガラス戸も少し開いていてね。建て付けが悪いんだ。だからそこはいつもカーテンで押さえつけている。それがはずれたのか、蚊が進入したようだ」
「じゃ、いるんじゃないですか」
「刺されたので、蚊のことを思い出し、こうして話しているんだ。もし刺されなかったとすれば、今年は蚊の話題も出なかっただろう。世の中に蚊など存在しないかのようにね」
「じゃ、やはり今年も蚊がいたんですよ」
「しかし、弱々しいヤツだった。手の甲に止まってね、元気な奴はそこでパチンとやっても逃げる。こちらの手より早いのか、空気の動きでキャッチするのか、いつも逃げられる。ただ、吸っている最中なら何とかなるが、それでは遅い。その蚊に結局刺されたが、その後来ない。いつもなら、しつこく、また来るのだがね」
「しかし、蚊が減って良かったじゃないですか」
「異変だ。こんな年は今までなかった。条件は去年と同じ。網戸の透き間は空いているので、入り込めるはずなんだ」
「妙ですねえ」
「そうだろ。だから、これは異変の前触れなんだ。それにゴキブリがいない。流しの三角コーナーの、生ゴミを入れるところには小さな蚊のようなのがたまにいるが、こいつは刺さない。それも減っている。それよりも、ゴキブリがいない」
「はい」
「しかし、座敷に一匹だけ大きなゴキブリがいてねえ。こんなところにいても餌はない」
「そういう虫が減ったのでしょうか」
「縁の下にいるコオロギやオケラの鳴き声も淋しい。秋先もっと賑やかに鳴くんだがね」
「何でしょうねえ」
「それとは別に、台所で物音がするので、行ってみると、ネズミがいた」
「ネズミですか」
「ネズミなど何年も見ていない。いや、十年、この家に住んでいるが、初めてだ」
「ほう」
「どう思う」
「何の前兆でしょうか」
「分からん」
「はい」
 
   了
   

 



2015年9月18日

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