小説 川崎サイト

 

神は細部に宿りすぎる


「些細事を語るよういなれば、終わりですなあ」
「些細なことですか」
「取るに足らぬ日常の、その人にしか分からないような話ね。そして、聞いている側は少しも面白くないし、興味もない。だから普通は語らないものだよ。語りというのは一種の芸でね、芸人じゃないが、受けるように話さないとだめなんだ。そうでないと聞いてくれないからね。だから、小さな話でも大きく見えるように話す。針を棒のように言う。しかし、それも面倒になり、もういいかと思うようになる」
「神は小さなところに宿ると言いますが」
「じゃ、神だらけだ。八百万どころじゃない」
「真理は細部にあるとも」
「じゃ、世の中、真理だらけじゃないか。まるで天地真理」
「そうですねえ」
「小さな話をするのは、大きな話とは関係がなくなってきたからだろうねえ。どんどん縮小し、箸の上げ下げに至る。次は箸の長さや太さや色だね」
「はい」
「君はご飯を食べるね」
「食べます」
「家で食べるかい」
「たまに自分で作って食べます」
「茶碗で」
「そうです」
「その茶碗の絵柄を覚えているかね」
「え」
「茶碗の色とか絵とか模様だよ。真っ白じゃないだろ」
「あ、はい」
「その茶碗、どうした」
「買ったと思います」
「自分で?」
「そうです」
「そのとき選んだはずだ」
「はい、少し大きい目のを買いました。丼茶碗よりも小さいのですが、普通の茶碗よりは大きい目です。一膳じゃ足りないし、二膳では多いので、一膳半ほど入ると思います。お代わりはしません」
「めし屋で言えば、めしの小か中だね」
「牛丼屋の並よりもかなり小さいです。だからミニ牛丼程度です」
「色は」
「さあ、青っぽかったです。紺色だったと」
「覚えているじゃないか」
「最近朝は自分で作りますので、毎朝見ていますから、赤じゃないことは確かです。濃い青だと思いますが」
「色目の割合は」
「え」
「白地と青味の割合だよ」
「さあ、白の面積の方が広かったと思います」
「中は」
「同じ模様のようなものです」
「中も外も同じ模様かい」
「そうだと思います」
「何の」
「え」
「だから、どんな模様」
「そこまでは覚えていませんが、ツタのような感じだと思います、草のような」
「じっくり見たことは」
「ありません」
「しかし、茶碗を使ったり洗ったり片付けたりするだろ」
「洗っているときはご飯粒や汚れを見ています」
「そうか」
「食べているときは茶碗ではなく、ご飯の残りを見ています。ご飯を見ています。でも、ちらっとですよ。見なくても食欲がないときは、まだこんなに茶碗に残っているのかと見ていますが、茶碗は見ていません」
「箸もそうかね」
「割り箸なので、特に注意して見ていません」
「そうだろうねえ、見る用事がないからねえ」
「はい」
「ところが他に用事がなくなると、そう言うところにまで降りてくる」
「茶碗の細部にですか」
「細かいところへ降りてくる」
「じゃ、神様みたいですねえ」
「細部に宿るとか、降りるとかだね」
「そうです」
「これを作った人がいる。こんなのいちいち画いた絵じゃないだろうけど、その背景に大きなシステムがある。私はこういうものに絵付けする趣味はないし、焼き物の趣味もない。しかし、それらを作っている人や工房や工場のようなものがあるだろう。ただの茶碗だが、より大きなものと繋がっている。これはこれで産業だろう」
「はい」
「しかし、茶碗は茶碗だ」
「そうですね」
「箸もそうだが、亡くなった人の箸は捨てる。誰も使わない。連れ合いも子供、孫も」
「はい」
「茶碗もそうだ。個人の穢れのようなものが染みついているんだろうねえ。親の形見の腕時計は使うがね」
「口にするものはそうですねえ」
「着物や洋服はいい。まあ、着ないだろうが」
「はい」
「だから、そういうのは神ではなく、個人が宿るんだ」
「非常に参考になりました」
「そうか、小さな話を、受けるように話すのは大変だよ」
「はい、受け取る方も大変です」
 
   了

   

 



2015年9月19日

小説 川崎サイト