小説 川崎サイト

 

三千九百八十円の写経


「お若いのに写経ですか」
「誰でもOKなんでしょ」
「そうなんですが、最近増えましたねえ。特に女性が、しかし、若い男性は珍しい。いないわけじゃないので、もう珍しくはないのかもしれませんがね」
「はい、ここで写経をしたり、本殿で御本尊に向かい座っていると気持ちが落ち着くのです」
「はい、写経の人は、本殿内で拝めます。座布団はありませんが、畳を用意しています」
「はい、見ました。畳二枚ですね」
「それ以上多いとバランスが悪くなりますしね。それに寺の者は畳は使いません。お客様用です」
「ここへ来ると欲が減り、過ごしやすくなります」
「若いうちは欲がある方がよろしいかと思いますが、欲が何者であるのかを知るには、うんと欲を出した方が分かりやすいのです」
「あのう」
「何ですか」
「この会話、お金、かかります」
「いやいや、これは無料です」
「青年よ大志を抱けと言いますねえ」
「ああ、北海道方面の外人の人が言っていた言葉でしょうかな。忘れましたが」
「僕も最初はその路線でしたが、大志を抱くと、あまり良いことがないことが分かりました」
「悪い言葉じゃないと思いますが」
「この大志って、一種の方便になりますよね」
「方便?」
「お題目のような」
「大きな目的を持つことは悪いことではありません」
「それは分かっているのですが、どうもそれが災いの元のような気がしてきて」
「ああ、結構いますねえ。そういう人は、控えめで大人しい人かどうは分かりませんが」
「身の程知らずではなく、知っていると言うことです」
「最近の若い人は悟りが早い。私など負けそうですわ」
「僕と似たように大志を抱き、ある目的に向かったとしましょう。上へ行くほど狭き門で、何人達成できるか分かりません。だから達成できない人の方が多いはずです。これは確率の問題ではなく、努力や熱意の問題かもしれませんが、上手く行かなかった人の方が圧倒的に多い。特に、志が大きすぎる場合顕著です」
「何が仰りたいのかは分かります」
「そうでしょ。だから、欲を減らすために、ここに来ているのです。結構高いですが」
「下げると客が多くなりすぎましてね。そのための部屋も必要になる。さらに静かではなくなります。だから、お値段は高いまま。さらに値上げをしようと思います。最近予約でないと入れなくなってますからね。ふらりときた行楽客が、気楽に写経できるようしたいのです」
「はい」
「さて、欲は落ちましたか」
「ええ軽減しました。大志が中志から小志へ、さらに小さくなりました。欲は消えませんが、減らすことができるのですね」
「しかし、状況が変われば、大欲が出ますので、ご注意を」
「そうなんですか。爆弾のように」
「そうではありません。あなたは今いい状態だから、欲を減らそうとかが言えるのです。様子が変われば、何とかしようと欲が出ます。この欲は、大志ではなく、我欲でしょうかね」
「そうならない方法、ありませんか」
「うーん」
「ここからは、有料?」
「いやいや、私にも分からないことなので。ただ、少しだけ思い当たることがあります」
「何でしょう」
「禁欲は良くない」
「そうなんですか」
「坊主ほど情欲の濃いものはない」
「え、どうしてですか」
「禁欲のしすぎで、溜めすぎて、濃い濃い」
「じゃ、ここで欲を減らすのはよくないかもしれませんねえ」」
「そうです。ここではニュートラルになる程度でいいのです」
「はい、有り難うございました」
「今の話、三千九百八十円ほどの値打ちがありますぞ」
「写経、一回分の値段ですね」
 
    了


 


2015年11月21日

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