小説 川崎サイト

 

色眼鏡


 人はそれぞれ自分の世界を持っている。人を色眼鏡で見てはいけないとされているが、この色眼鏡はディフォルトとして最初からある。これは取れない。だから眼鏡ではない。色眼鏡は色の問題で、それはフィルターのようなものだ。色目が変わる程度で、本質は変わらない。
 同じものを見ても、同じように見えていないのは、視覚的に見ていないためだろう。見るというのはカメラで写したようなものではなく、映像だけの話ではない。色だけではなく色々なものが込められたイメージとして感じている。これは逆に言えば、リアルなものでもバーチャルなものになる。個人の感性や感覚、またそれらの背景にある意味などと絡むためだろう。
 この意味に重点を置くと、意味の病に罹る。ただ、それは健常者でも、その状態が常態なのだろう。
 同じものを見ていても、個人差は当然だが、それを見た時期とか、タイミングで違った意味を見いだしたりする。または意味を失ったりとかも。
 これは生き方に関係してくる。ある生き方では意味が生じるが、別の生き方では生じない。その生き方は何かで変化し、これも恒常性はない。十年前の自分と今とでは生き方が違っているだろう。補正を重ねているためだ。
 岸本は学生時代の仲間とばったり会い、久しぶりに話をしたとき、そんな感想を得た。
 その友達と共通の趣味があり、そのイベントなどへ一緒によく行ったものだ。それから五十年近くなる。
 その話をすると、彼も細々と、まだそれをやっているらしい。岸本も実はまだ続けているのだが、細々としたもの、縮小したもになっている。この趣味の行き着く先は、単純素朴なものに至るので、正常な結果だろう。
 二人とも五十年前の会話をやっている。そこにピントを合わせているためだ。
 五十年前のその趣味の世界。それはもう殆ど残っていない。また、今、当時のアイテムを持っていたとしても、何の値打ちもない。もう売られていないので貴重品だが、使い道がない。
 今はどんな展開になっているのかと、岸本が聞くと、今風なものに置き換えているらしい。それは岸本も同じだ。
 この趣味に関して、二人の意見というか、好みが違っていた。しかし、非常に似ているので、他のメンバー達からは同じ色として見られていた。ところが、細かいところどころか、本質的な違いあり、同じどころか水と油のように弾き合う関係だった。
 岸本はそのことをぶり返すように聞くと、今もそうらしい。そこは変わらないようで、進化も退化もない。ここがこの友人の本質的核心部分だろう。
 岸本はその友人の色を知っている。当然変化はしているが、色目は同じで、寒色から暖色へは枝分かれしないようだ。
 五十年近い経過にもかかわらず、この色眼鏡だけは外れないようだ。その間色々な経験をしているはずなのだが、それが色眼鏡にあまり影響を与えていないように思われる。
 そして、
「相変わらずだなあ」
 と、言い合い、ここで合意した。
 
   了


 
 


2015年12月6日

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