小説 川崎サイト

 

年越し


「年末になると浮き足立ちますなあ」
「え、何が」
「足が」
「ああ、年の瀬、瀬ですから、不安定なのでしょう」
「ああ、なるほど、この瀬はやはり乗り越えるのは難しいと」
「気分的な問題でしょうねえ。あなた、年末何か忙しいこと、ありますか」
「用件ですか」
「年末調整とか」
「ああ、それはありません。自分で無理に用事でも作らない限り、何もありません」
「なのに浮き足立つ」
「やはりこの時期、そんな感じです」
「今まで何度も年を越されたわけでしょ。じゃ、船乗りとしてはベテランの船頭だ」
「いや、大したことはありませんよ。働いていた頃は急げばいいだけのことで、それで忙しい思いをしただけです」
「なのに、毎年、気ぜわしいですか」
「そうです。気の問題でしょうねえ」
「クリスマスを過ぎると、奈落の底に一気に落とされるほど早いですよ」
「瀬が速いと」
「はい、潮が速い」
「特に何もないのに、おかしいですなあ」
「鵯越の逆落としをご存じですか」
「ああ、一ノ谷の義経ですね。鹿も四つ足、馬も四つ足と言って、山の斜面、あれは谷ですかね、一気に下りて、敵に中入り」
「中入り?」
「はい、割って入るのです。横から。だから須磨の海岸に沿って横に並んでいた敵の陣を横からつくわけです。これを中入りと言いましてね。手薄なんです」
「それで、あんなところから駆け下りたのですか」
「そうです」
「それは平家物語ですねえ。諸行無常の響きありの世界です。盛者必衰」
「あの一ノ谷の年、平家は年を越したのでしたか」
「知りません」
「でも長くはなかった。すぐでしょ。平家滅亡まで、一ノ谷から長くかからないはずです。一年かもしれません」
「そういう時代じゃありませんが、他のことで、年を越せない人はいくらでもいるでしょうねえ」
「元気な人もそうですなあ」
「そうです。明日のことなど分からない。毎年簡単に年を越していますが、よく考えると、怖い話です。人間の運なんて、何処で果てるか分からない。あなたも帰り道、車にひかれたら、それで一巻の終わりですよ」
「年をやっと越せたのに、喉に餅を詰めたりとかも」
「そうです。何のための目出度い元旦の行事か分かったものじゃない。祝うどころか、呪いますねえ」
「年末落ち着かないのは、そのためでしょうかなあ」
「瀬を超える。実際には時間が少し経過するだけのことですが、残りの年がそろそろ気になる年齢ですしな」
「そうなんです。あと何年越せるかと思うと」
「越せても、そこが谷底で、大怪我なら、とんでもない一年の始まりですし」
「そんな縁起の悪い」
「縁起、因果は何処でどうなっているのかは見えませんからねえ」
「それもまた運命ですか」
「天か神がそうするようになされたのでしょう」
「そこで、神様が出てきますか」
「まあ、これは諦念の常套句です」
「その場合の神様とは、誰でしょう」
「神一般でしょうなあ。任意の神様じゃなく」
「ほう」
「人ではないものでしょう」
「怖いものがうろついているのですねえ」
「いやいや」
「まあ、今年も越せるでしょう。しかし、まだ不安が」
「じゃ、除夜の鐘が鳴るまで、じっと座って待っておられたらいいでしょ」
「余計に怖いですよ」
「越すに越されぬ田原坂、箱根もそうですなあ」
「しかし、去年は知らない間に越してました。早く寝たためでしょうなあ」
「はい、お好きなように」
 
   了





2015年12月29日

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