小説 川崎サイト

 

稲荷山の怪


 稲荷山は田圃からいきなり山になる。この辺りの地形が成せるのか、どの山も平地からいきなり山の斜面になる。畳の上にお椀を伏せたように。
 稲荷山はお稲荷さんが祭られているわけではなく、山そのものがお稲荷さんで、だから、お稲荷さんとは呼ばず、土地の人は単にイナリヤマと言っている。稲荷山への参道などはなく、ただの畦道だが、そこに一人の老いた農夫が、案山子のように、しばらく動かない。
 農夫が見たのは善蔵という男で、同村者。
「善蔵さんではないか」
「ああ、親父さんか、精が出るのう。これから野良かい」
 農夫は聞きたいことが沢山あり、それを頭の中で整理しているのか、言葉に出ない。
「何処へ行ってらした。無事じゃったかい」
「ああ、どうした、急に親父さん」
「いや、無事なら善いんだ」
 この善蔵、村から急にいなくなり、数年ぶりで、姿を現したらしい。農夫はそれで驚いている。きっと神隠しに遭ったのだと思うのだが、何処へ行っていたのかを聞きたかったのだ。それ以前に村の衆に知らせるのが先だろうか。今すぐ聞きたいが、先に知らせるべきか、それで足が泳いだ。歩くともなく、止まるともなく。これはブレーキを掛けたりアックセルを踏んだりを繰り返しているようなものだ。
「じゃあな親父どん」
 善蔵は稲荷山を背に、集落側へ去ってゆく。背にトゲトゲの柴を背負って。
 不思議なことがあるものだと、農夫は稲荷山の登り口へと回り込んだが、そこでまた足を止めた。
「牧原の幸助さんじゃないか」
 この幸助も行方不明になっていた人らしい。
「善蔵さんと一緒だったのかい」
「いいや」
「一体全体幸助さんは何処へ行ってられた」
「戸石川で苔取りだよ」
「苔」
「ああ、商家の大峰堂さんに頼まれてねえ。庭造りに使うんだって」
「そんなことで十年もかかろうわけがなかろう、嘘を言っちゃだめだ」
 幸助は、苔の入った包みを農夫に見せた。
「苔採りをしているときに、連れて行かれたのかね」
「いいや」
「じゃ、何処へ行ってなさった。みんな心配しておったぞ」
「苔採りぐらいで、そんな心配など」
 幸助は笑いながら、立ち去った。
 そして、稲荷山の登り口に立ったとき、上からまた村人が姿を現した。
 農夫はまた足がすくんだ。四年前消えたお年ちゃんだ。すっかり大人っぽくなっている。
「お年ちゃんじゃないか」
「ああ、親父さん」
「ど、何処へ行ってたんじゃ」
「稲荷山に決まってるでしょ」
「ああ、そうか」
 さらに……。
 善蔵も幸助もお年も、次に現れた死んだはずの婆さんも生きているし、また誰も村から消えたわけではない。
 その老いた農夫、少しだけ自分だけの物語世界に入り込んでいたようだ。
 
   了
 

 

 


2016年1月21日

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