小説 川崎サイト

 

上段者


 剣道の上段者、日本でも何人といないが、高橋翁はかなりの年寄りだ。しかし寒稽古は欠かさない。といっても素振りだ。その前に井戸の水をかぶる。年寄りの冷や水とはこのことだが、若い頃からその習慣があるため、何ともない。逆に入浴が苦手。風呂嫌いのため、この冷や水が行水になる。タオルではなく手ぬぐいで身体を強く擦って拭くのだが、これで入浴の必要はなくなる。
 ある朝、一番下の孫が泊まりがけで来ていた。一番下の娘の子供だ。この娘は翁から見ると孫ほど年が離れているのだが、五十路を超えてから授かった末っ子なので、可愛がっていた。
 その孫が裸で水浴びをしている翁を、じっと見ており、更に竹刀を振り回しているのを見て、興味を抱いた。悪戯盛りの男の子だが、大人が朝から一人芝居で暴れているように見えた。
 翁は孫を見て、手招きした。剣道を教えてやると。
 短い竹刀がないため、子供にとっては薙刀ほどの長さになる。
 翁は下段に構え、「何処からでもかかってきなさい」と言った瞬間、面を取られた。
「まだ、言い終わっておらんだろ」
「はい、爺ちゃん」
「じゃ、もう一度」
「さあ、何処からでもかかってきなさい」
 今度はかなり間を置いてから竹刀が上から降ってきて、翁の頭をしばき倒した。
 今度は間が長かったためではなく、本当に孫の竹刀を受けるか交わすことができなかったのだ。
 これが私の今の実力だったのかと、翁は悟った。今まで目下に負けたことがないし、こういう練習のときも、全て受けたり流したり、引いたりして、交わしていたのだ。
 日本に何人もいない上段者。孫はそれを知らなかったようだ。
 
   了



 

 


2016年1月23日

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