小説 川崎サイト

 

ご存じより


 階段を上がる。その先に毎日通う喫茶店がある。一段一段、足の重さを確かめる。高島の日課だ。足が軽いときと重いときがある。散歩に出るのが億劫な冬場は足が重い。しかし運動不足が足の重さに繋がるとは断定できない。今日は昨日と似ており、少しだけ重い。
 高島はコーヒーを飲む。最初の一口で胃腸の状態が分かったりする。当然舌と鼻がこのときの主役だが、香りはその日により、体調に関わりなく変わることがある。入れ立てとそうでないときがあるためだ。
 そして煙草の一服目。これで呼吸器系が分かる。胃腸も多少は関係している。それらは、昨日とあまり変わっていないが、ほんの少しだけ、昨日より落ちている。これは階段での足取りと関係しているだろう。
 このチェックは確認しているだけで、大した意味はないし、コーヒーが美味しいどころか、胸が悪くなることがあったとしても、特に対策を練るほどのことでもない。翌日、もう治っていたりする。
 何事につけても心配性な高島は、そういった暮らしの中でも注意を怠っていない。朝のこの階段から始まり、コーヒーと煙草、そして、本の活字がしっかり見えるか、などがチェックポイントで、最後はトイレで小便の色と勢いを確認して終わりだ。
 今朝もそれらのチェックを無事通過し、平穏な一日が過ぎていく。こんなチェックをするのも、平穏な証拠かもしれない。
 ところが異変が起こった。
「ご存じより」
 と、書かれた紙を見たからだ。場所は自宅の北向きの部屋で、冬場は殆ど使っていない。高島は一人暮らしだ。羽振りのよかった若い頃、中古で買っている。それが最盛期で、その後、落ち続けた。
 その窓の下に背の低い家具があり、その上は机としても使えるほど広い。「ご存じより」と書かれた紙はコピー用紙で、高島が何かのおりにに出して、飛ばないように壊れた懐中時計を乗せていた。
 朝のチェックなど吹っ飛ぶような出来事で、まったく次元が違う。
「幽霊」
 どうしてそう思ったのかは不明だが、高島は真っ先にそう感じた。
 こういうことに詳しい人は身近にいない。心配性が心配で、精神科へ行ったことがあり、その診察券がまだ札入れに挟まっている。しかし、そんなところへ行けば、最初から病気が悪化したと思われるだろう。これは錯覚でも何でもない。これほど具体的な現象はない。
 この怪奇現象は毎朝の体調チェックではまったく関知できない別事項だ。
 高島は他のことはそっちのけで、この謎に挑んだが、どう考えても、幽霊の仕業としか思えなかった。
 幽霊が来て、ご存じよりと置き文して帰ったのだ。来ましたよ、ということだ。
 高島は電話帳やネットなどで、色々調べ上げた結果、いかがわしそうだが、近所に探偵事務所があるのを見付けた。
 
 ガラス戸のドンドンという音で、探偵は昼寝を中断し、玄関先に出ると、そこに憔悴しきった高島が立っていた。まるで幽霊だ。
 高島は事のあらましを探偵にに鉄砲水のように吐き出した。唾が探偵ににかかったほどだ。
「幽霊ですか」
「はい」
「ご存じより……ですか」探偵はコピー用紙に書かれたその文字をじっくりと見ている。
「高島さんは幽霊が書いたと仰るのですね」
「訪ねてきたのです。でも僕が留守だったので、書き置きを」
 確かに女性の筆跡のようにも見えるし、ご存じよりという言い方も女性っぽい。
「思い当たる人がいますか」
「はい」
「じゃ、その人が訪ねて来たのでしょう」
「家にどうして入り込んだのです。僕がいるときでもロックしてあるし、出るときも当然鍵を掛けています」
「最近幽霊が出たような様子は」
「ありません」
「家の中で、何か他に変わったことは」
「ありません」
「ほう」
「ただ最近、階段での足が重いです」
「あ、そう」
「煙草もコーヒーも少しだけ苦い目で、本を読むときの視力も、ほんの少しですが、しっかりしません。いつもなら、活字がしっかりと目に入り、非常に高解像なのですが」
「はい」
「先生、幽霊じゃなければ、何ですか」
「どうして幽霊だと決めつけるのですかな」
「それは、どう考えても幽霊の仕業のように思えるからです」
「はいはい」
「では誰が、この文字を書いたと思われますか?」
「高島さんじゃないですね」
「当然です。書いた覚えもないし、書いて忘れた覚えもありませんし」
「その北向きの部屋、毎日見てますか」
「いや、数日に一度ほど、物を取りにとか、戻しにとかで、たまに入る程度です」
「最後に入られたのはいつですか」
「三日ほど前です。ボールペンが出なくなったので、その部屋にあるのを取りに行きましたが、そのときはそんな文字など」
「この文字、そのボールペンで書かれたものではありませんか」
「そうですねえ」
「他に家の鍵を持っておられる方は?」
「いません」
「女性に鍵を渡したとかは」
「ありません」
「思い付かれる幽霊さんがおられるようですが」
「あ、はい」
「女性ですね」
「はい」
「故人ですか」
「それは分かりません」
「じゃ、その人でしょ」
「鍵など渡していません」
「じゃ、開いているときに入ったのでしょ」
「え」
「または、鍵などなくても、入る方法を知っていたのですよ」
「そ、それは」
「よく考えてください、戸締まりを」
「ああ、鍵をなくしたとき用は……」
「玄関近くにスペアを隠していたとか」
「それはありません。しかし庭が開いています」
「庭」
「家の裏側ですが、そこの窓が……」と、言った瞬間、誰が侵入したのかが分かったようだ。
「もういいです。分かりましたから」
「あ、そう」
 庭に面した窓は内側からロックをしていなかった。風通しで、少しだけ開いている。この庭の向こうは、燐家同士の余地で、そこの塀か母屋と接している。人が出入りするような場所ではないのは、ここに引っ越してから、通っている人を一度も見かけないからだ。
 数軒先の私有地から、その隙間のようなところを通って、高島家の庭に辿り着けるが、半身になったり、障害物を飛び越えなければいけないだろう。
 庭と余地とは簡単な金網で仕切られている程度で、木戸のような扉はあるが、そこは開いている。いくらでも飛び越えられるほど低いため、そんな扉など必要ではないためだ。
 高島はここを通った女性が一人だけいることを知っていた。高島が教えたのだ。
 その女性がそこを通ったのは何十年も前の話だ。そして窓から飛び込んだ。
 しかし、何故、今、急に現れたのだろう。
 高橋は、やはりこれは幽霊ではないかと、再び最初の勘に戻った。
 あの書き置きのあった日に、旅だったのだ。
 
   了


2016年1月25日

小説 川崎サイト