小説 川崎サイト

 

阿弥陀籤


 二歩三歩進んだとき、一寸行き詰まり、嫌な雰囲気になることがある。方針を間違えたのではないかと不安がよぎる。そんなはずはない、道は間違っていないはずだと何度も確認するのだが、あまり説得力がない。これは自分に対して。
 そんなとき、一歩下がることを考えるのだが、一歩程度では今の方がいい。元気になれば、また一歩進むのだから下がるだけ損だ。そうではなく、もっと後退した方がいいように思える。未来への分かれ道は過去、通り過ぎた枝道の中にあったりする。
 では何歩下がればいいのだろうか。下がり過ぎると来た分もったいない。やはり今の道で合っていたのなら余計な足だ。
 しかし前に進もうとしても、なぜか雰囲気が悪い。足取りが重い。この重さは何かが間違っていることを知らせているように思える。ただ、思っているだけかもしれない。そのため、ここを我慢して通過すれば楽になり展望が開ける。と自身を説得するが、それが効かないとなると重症だ。やはり道に迷ったのではないかと考える。
 さて、それで一歩後退ではなく、かなり後戻りすれば逆に新鮮だ。もう忘れていたような場所になる。特に非常に良かった場所だと、何処から悪くなったのかを考えるチャンスとなる。
 これは阿弥陀籤のようなもので、阿弥陀様も殺生なことをなさる。手のひらで迷わせているのだ。手のひらの皺、筋のようなものが道だとすれば、そこを彷徨っているようなもの。手相は一種の地図のようなもので、いろいろな道、街道、枝道、細い道などが書き込まれている。
 阿弥陀籤は阿弥陀への道だが、道順を間違えると、スカとは言わないまでも、そこで終わる。より深いところまで行けば、さらに良いものが得られるだろう。
 脳の皺の中にも、その阿弥陀籤があり、これは選択という分かれ道で、籤を引いているようなものだ。
 隣の阿弥陀道が見えていても、バイパスが見つからない。かなり引き返さないとその道へは出られないが、出たとしても、その先は大したことはなく、それなら以前の道の方が伸び代があるのではと考えたりする。
 さて、何処まで戻るかだろう。戻ると決心した限り、思い切った遡り方をした方が威勢がいい。二歩以前とか、三歩以前とか言わず、十歩も百歩も遡る方が良かったりするのだが、何処まで戻ればいいのか、そのポイント地点が問題になる。
 これは勘やイメージで、適当にあたりをつけている程度だろうか。確信があるわけではない。
 また、結局元の道に戻ってしまったとしても、二度目通るときは、また趣が違い、新たな枝道を発見するかもしれない。前へ向かうだけが能ではない。
 
   了
 


2016年3月13日

小説 川崎サイト