小説 川崎サイト

 

物の怪の正体


 人は結構物に依存している。いろいろな物だ。それらは買った物が多い。自然界の中から取ってきた物もあるが、家を建てるにしても、勝手に山から木を切り出して持ち帰れない。限度がある。木造の家が欲しければ、工務店に頼むことだ。昔は大工に頼めばよかった。大工は木を調達してくる。切りに行くのではなく、材木屋から買ってくるのだ。この材木も何処かから仕入れてきたものだろう。海外かもしれない。
 だから物のほとんどは買っている。物がなくなれば、また買えばいい。ご飯もおかずもそうだ。野菜を自分で栽培するにしても、種や苗を買わないといけないだろうし、庭がなければ鉢や土まで買うことになる。当然肥料も。水をやるだけでも道具がいる。水道代も払わないといけない。
 物にもいろいろあり、衣服のように暑さ寒さから身を守るだけではなく、お気に入りの衣料品がある。靴でも帽子でもセーターでもいい。物がややこしくなるのは、そこからだ。
 そういった物にまつわることで、怪しくなると、それを物の怪と呼ぶ。奇妙な形をした動物や、怪物、化け物を差すのではなく、実は、この物が物の怪の正体。これを妖怪と言ってしまうと、物から離れてしまう。
 物にまつわることで怪しくなる代表は、物欲のようなものだろう。物としての形のないもに対しても、物事としての物がある。求めているのは物なのだ。この物は、者にもなる。
 と、妖怪博士は、今日もそんな言葉尻だけの屁理屈をこねているのだが、これは屁のような理屈なので、屁相当の価値しかない。屁に価値があるかどうかは分からないが、腹が張っているとき、屁が出ることは価値だ。それで、すっきりする。盲腸などの手術後、屁が出るかどうかが非常に大事だ。出れば価値ある一発だ。
 人は物に依存している。その話の続きだが、愛用の、いつもの箸を折ってしまった妖怪博士は、別の箸、これは予備で買っていたものだが、それで食事をとった。味が違う。別に箸をなめながら食べていたわけではないので、箸から出る味が違うわけではないが、多少はあるだろう。
 あの箸でなければ食べた気がしない。あの太さと、あの滑り具合、あの握り具合でないと落ち着かない。これは慣れれば落ち着くのだろうが、それまで如何にあの箸に依存していたのかと感じ、それで物の話を思いついたのだ。何でもかんでも物の怪や妖怪に結びつけるのは職業病にしかすぎないが。
 人は物に依存している。その物がおかしくなると、本人もおかしくなるわけではないが、これが箸ではなく、もっと大事な物だと、大変になる。小変ではなく。
 そして物を求める行為、これは物の怪的とすぐに言うのは早すぎるが、その兆候はある。物の怪となる小さな種だ。
 世の中すべては物にまつわる怪異談ではなかろうかと、早い目に結論を出したようだ。瓢箪から駒が出るのだから、箸から名案が出てもおかしくない。
 
   了




2016年3月29日

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