小説 川崎サイト

 

発言の自由


 下田は会議のとき、いつも黙り込んでいる。あるとき、同僚がなぜ発言しないのかと聞くが、おおよそ分かっているのだろう。意見らしい意見がないためだ。見解は誰にでもある。しかし、言うほどのことではなけば黙っている。発言したとしても会議がそこで止まったのも同然。言わなくてもいいようなこと、聞かなくてもいいような内容のためだ。しかしこの将棋の「歩」のような駒は時として必要だ。この歩を使うにはタイミングがいる。しかし、下田にはその技というか、絶妙の間合いがない。歩の一寸した動きで、王将が倒れることもあるのだが。
 今度は同僚ではなく、人のいい上役が、同じ質問をした。君はどうして黙っているのかと。会議なのだから、何か言った方がいい。サボっているように見られると忠告した。良い人だ。下田は黙って頷いた。
 次は論客の同僚が聞いてきた。非常にできる男で、所謂声高タイプ。しかし元々声は小さいのだ。会議のときだけボリュームを上げるようだ。そうしないと勢いが出ない。これは浪曲や演説と同じ。そういう口調でないと、喋れないのだろう。
 下田は返事に詰まり、言論の自由だと答えてしまった。それなら、大いに意見を言えばいい。どんな発言でも、しっかりと受け止めるから、と、太っ腹なとこを見せた。こういうのを腹が太いというのかどうかは分からない。要するに大物ぶりたいのだろう。
 下田は発言しない自由もあると言ってしまう。発言の自由は、発言できないように規制のようなものがかかったときに、言うフレーズだ。しかし、言わない自由もある。言うも言わないも自由なのだ。
 それに下田にはこれという意見、見解がいつもない。多少はあるのだが、些細なことで、所謂「歩」なのだ。この歩では発言しても仕方がない。それに下田は歩の差し方を知らないので、うまく「歩」を挟めない。
 こういう話になると、下田は蕎麦屋の釜を思い出す。つまり湯ばかりというやつだ。言うだけなら誰でも言えるのではないか。それを実行するのが難しい。当然簡単にはできない。また不可能なこともある。そうなると念仏になる。お経になる。
 ある種の発言を続けることは警鐘を鳴らし続けることにもなるのだが、鳴らすだけでは何ともならない。それは非常に貴重な情報かもしれないが、受け取った人も、何ともならなかったりする。この空しさを下田は知っているわけではない。そんな高見の認識などない。
 今度は下田より発言の少ない同僚が、聞いてきた。どうして発言が少ないのかと。
 言っても仕方がないからねえ、と、下田は適当に答えた。本音というのは、こういう身も蓋もないところにあるのかもしれない。
 

   了





2016年4月6日

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