小説 川崎サイト

 

花散らし爺


 小雨降る山寺。その周辺は桜の名所として知られており、この地方では、ここの桜が咲くのが一番遅い。
 その桜、この小雨のためではなく、降り出す前から既に葉桜に近かった。それでも花見客はそれなりにいたのだが、雨では無人。山門前の茶店も閉まっている。
 桜は寺の敷地内だけではなく、その周辺にも咲いている。山門を潜るにはお金がいる。これがもったいないわけではないが、傘を差してじっと花見をしている老人がいる。これがこの老人の花見スタイル、流儀ではない。毎年ここで花見をしていたのだが、今年は出遅れたようだ。
 この老人、花落とし爺、花散らし爺とも業界では呼ばれている。この老人が来ると、真っ盛りの花のように盛り上がっていたイベントなどが一気に盛り下がる。決して邪魔をしに来ているわけではない。しかし、彼が加わると、不思議と咲いている花が散る。
 そして、この花散らし爺が通ったあとは二三年は雑草も生えないと言われている。だから不吉な男だ。その名を知っている者なら、決して参入や、参加はさせない。
 最後にその本領を発揮したのは古都の里だ。古都とは古い都。これは都は都市、里は村だろう。だから古都の里という言い方がそもそもおかしい。この老人が付けた名だ。
 地方には地方銀座があるように、小京都があるが、それなりに大きな町だ。古都の里は田舎にあるが、裕福な農家や商家が残っており、その庭園は一級の日本庭園だ。寺や貴族の別荘ではなく、個人の家の庭。そういう庭が開放され、古都の里として盛りあがっていた。車でさっと通り過ぎれば、そんな里など存在しないほど狭いエリアだが、古い農家はそのまま郷土料理の店になり、名もない寺も、参道だけは立派で、そこに茶店や土産物などが売られている。いずれも地元の人が勝手にやり出したことで、個人単位だ。これは他家と張り合うため、結構私財を投じて、改築したり、茶室や野点、歌会やカルタまでやり始めた。それですっかり人気を呼び、古いだけの村に花が咲いた。そこに現れたのが、例の老人。このタイプの企画ものが得意な人で、まずは個人がばらばらでやっていたものを組織化し、古都の里として、さらに盛り上がるはずだったが盛り下がり、咲いた花も散り、今は枯れてしまった。
 しかしこの老人が来なくても、古都の里のどのオーナーも赤字だった。有り余る私財があったわけではないが、一花咲かせたかったのだろう。要するに村の年寄り達の遊びだったのだ。そのため、いずれは資金が続かず、散る運命にあったが、例の老人がそれを早めた。
 この花散らし爺、自分でもそれを知っているのか、もう散ってしまった雨の中の桜を、じっと見ている。まだ残っている花びらがある間は、花見だと嘯いて。
 
   了
 


2016年4月17日

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