小説 川崎サイト

 

欲望という名の電車


 感性は深いところで発火するのか、浅いところで発火するのか。もし浅いところでなら、もの凄く単純な話になる。つまり深い意味はないと。
 つまり、感情の最前線に、感性があるのかどうかだ。この感情は単純なものなのか、それとも文脈のある感性、その人なりの何かから来ているのか。何処からも来ていません、そのままですでは単純すぎる。実際にはそうなのかもしれないが。
 感情の前に感覚がある。五感のことだ。五感を研ぎ澄ませて物事を観察する。その五感だ。この五感に感情が乗り、さらに奥に感性がある。その感性はオリジナルな文脈、プログラムだろうか。その人独自の癖のようなもの、傾向のようなもので作動していたりする。
 しかし、この感性まではまだ正直な話で、その先か前かは分からないが、理性とかがある。これは理屈だ。ただ理屈で物事を見ているわけではなく、最初は目だろう。耳だろう。これは何のために付いているかというと、鼻もそうだが、動物としての基本で、危険か安全かを見分ける。石があれば避ける。これが基本の使い方。石を避けるための目とか、危険なものが迫って来るような物音、毒気のありそうな匂いの感知、など、動物として最初から備わっているもので、意識しなくてもやっている。多少予測能力もある。危険なものが近付いて来ているが、あの柵があるので、ここまでは来られないだろうとか、当然、動体予測で、来るまでの時間なども何となく分かる。
 それらのことにも感情や感性、理性が加わることもある。それは認識だ。
 なぜ大きな石が道にあるのかを考える。誰が置いたのか、とか、誰が落としたのか、とか、これは花崗岩だろうとか、漬け物石に良さそうだとか、色々な感情が働く。その感情を働かせているのは、そのとき、何処が発火したかだ。理性が動いたのなら、これは、こんなところに石があっては迷惑とか、もし置いた奴がいるとすれば、それはいけない行為だとか、そっちへ飛ぶ。一番単純なのは、躓かないですんだ程度。うまく避けた程度。これは一番動物的で、単純だ。このとき、舞うように避けるとか、必要以上に身のこなし方が綺麗とかになると、作為を感じる。避ければ良いだけなのに。これは別のところが発火したのだろう。身体を動かすのが好きだとか。
 しかし、反射神経的な反応でも、その人なりの身のこなし方がある。これは身体の具合から来ているので、頭とはあまり関係がない。筋肉とか、筋とか、骨の問題だろうか。
 人がロボットにはなれないのは、感情があるからだ。感覚はロボットにもあるが、感情がない。この感情がかなり奥深いところ、複雑なところと繋がっている。意味を見出したり、見出さなかったり、有為なことでも無為と受け止めたり、また、ある意味正しいとか、ある意味正しくないとか、意味を振り分けたり料理するのが好きだが、結構矛盾しており、カオス状態なのかもしれない。
 これは欲というのがあるからだ。これが背後霊のように控えており、それこそ欲望という名の電車に乗っているようなもの。
 人を動かしているもの、それは単純なのか複雑なのか、そういうことの判断でさえ、欲が絡んでいるように思われる。この欲、意外と動物的で単純な話だったりもする。
 
   了

 




2016年5月17日

小説 川崎サイト