小説 川崎サイト

 

過去の記憶


 棟割長屋。坂田はたまにそこへ行く。実家が残っているためだ。土地も建物も坂田家のものだが、取り壊さないで残っている。七軒ほどが繋がっているが、昔で言えば平屋の分譲マンションかもしれない。今は空き屋が半分以上になり、放置状態。そのため、たまに見に来ている。小さいながらも門があり、狭いが庭もある。そこの雑草を抜いたり、挟んであるチラシを取り払ったり、また、雨戸を開け、風も通す。
 この辺りはそういった長屋が多くあり、坂田は小学生まで、ここで育った。
 今はもうお爺さんになってしまったので、遠い記憶で、殆どのことは忘れている。
 その中で、たまに思い出すのが縁側だ。これは近くの長屋の縁側で、お菓子をもらって食べているシーン。犬もいる。近所のオバサンさんの家で、親同士仲がいい。
 当然その家はもうなく、マンションになっている。
 昔の記憶の中に自分がいる。しかし、それは今のお爺さんになった坂田とは、もう世界が違う。縁側でお菓子をもらって食べていた自分は別人だ。同じ坂田であり、記憶は繋がっているのだが、もう別世界。
 当時何を考え、何を思っていたのかは、流石に時間が経ちすぎて分からない。これが昨日の自分なら繋がりがあるどころか、その延長だろう。昨日の夕食、魚を食べたので、今夜は肉、とかのような意識の繋がりだ。魚が続くので、肉。これは関係性がはっきりとしている。昨日と今日との。
 一年前はどうかとなると、それほど変化はないが、もう途切れている。一年前の夕食、何を食べたのかなど覚えている方が怖い。余程珍しいものでも食べたのでもなければ、印象にも残らない。それなりのものを食べていたのだろう。今と極端に違うようなものではなく。
 それが何十年も前の小学生時代になると、これはもう繋がっているのだが、間が長いので、いちいち覚えていない。だから、昨日と同じような自分が今日もいるという感覚ではなく、別人だ。
 その実家も、こんなところで住んでいたのかと、不思議に思うが、空き屋になってから、たまに見に行くようになってからは、認識の仕方、付き合い方も違っている。今の感覚だ。七軒の家が「取り壊す」と決断しないと土地も売れない。もう生まれ育った場所という思い出の世界から離れている。
 家の中は何もなく、いつ取り壊してもいい状態だ。たまに自分が寝起きしていた部屋を見るが、記憶はしっかりとはあるが、こんなところに蒲団を敷いて寝ていたのかと思うと、懐かしいのだが、別の自分のようにも思える。
 つまり、今の感覚で見ているのだ。回想のために見ているのではないためだろう。
 しかし、たまに夜中、目を覚ましたとき、この部屋の間取りになることがある。襖があり、ガラス戸があり、電球がぶら下がっている。小学生の頃、目を覚ましたときの角度で見ているのだ。当然、それらはすぐに消え、今の自分の部屋に戻るのだが、何処かに、まだその記憶が残っているのだろう。
 人は、この今に生きている。過去が人ごとのようには思えないが、その時代の感情が分からなくなっている。当時の感情、それは今の感情からしか導き出せない。
 
   了



2016年5月29日

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