小説 川崎サイト

 

消えた麦藁帽


 吉田がもう何年も見ている人がいる。当然吉田も見られているのだが、それほど気にするような人ではない。ただの散歩老人だ。しかし身なりはよい。
 この人を見るのは三時のおやつの時間。真夏だと非常に暑い。吉田はその時間、個人事務所を出る。三時前に仕事を終えるためだ。それ以上仕事はしない。その代わり朝は早い。
 事務所を借りてから五年近くなるが、その帰り道、必ずこの散歩者とすれ違う。電車ほどの精度はないが、路線バス並の精度がある。多少早かったり遅かったりするが、遅くなる方が多い。ただ散歩者なので歩道を歩くため、渋滞に巻き込まれて、などはない。これはこの人の歩くペースに関わるのだろう。
 真冬のコートは長い目で、しかもオレンジ色。それほど派手ではないので、レンガ色、彩度がないので、色目は派手だが、それほどでもない。夏のこの季節、農家のおじさんのように見えるのは大きな麦藁帽子をかぶっているため。それは二年前からで、日差し除けには、それがふさわしいのだろう。ただ安っぽい帽子ではないのは、縁と紐を見れば分かる。
 この散歩老人は姿勢がよく、背筋をしっかりと伸ばし、首を一切動かささず、真正面を見て歩いている。きっと何かのリハビリだろうか。ただただ歩いているだけ。
 その老人、夏の初め頃には見かけたのだが、最近見ない。吉田がそれに気付いたのはかなり経ってからで、夏真っ盛りの頃だ。こんな日、歩くのは大変だろうと、ふとあの老人のことを思い出したのだ。それまで気付かなかった。よく考えると半月ほど見ていない。
 これは暑さにやられたのかもしれない。しかし去年の夏は歩いていたし、その前の年も。だから、暑さではなく、別のことで体調を崩した可能性もある。何のリハビリだったのかは分からないが、それが悪化したのだろうか。
 しかし、これは単純な想像で、引っ越したのかもしれないし、散歩コースを変えたのかもしれない。こればかりは聞いてみないと分からない。
 
   了

 


2016年8月15日

小説 川崎サイト