小説 川崎サイト

 

当たり前のもの


 今まで当たり前のように使っていたものがなくなると、急に不便を感じる。指の先が一寸痛いだけでもそうだろう。普通に物を掴んだりしにくくなる。また普段使っている物がなくなり、それに代わるものがあったとしても、以前よりも不便を感じる。
 そして当たり前のようにしてあったもの、使っていたもの、機能していたものの有り難みを感じるのだが、日々の平和な暮らしと同じで、あまり価値があるようには思えないものだ。なくしてから分かることなのだが、なくさなければ分からない。そしてそんなことは普段想像だにしなかったりする。
 当たり前のようにあるもの、それは数え切れないほどある。そのため、そのいちいちを心配していたのではきりがない。当然他にも考えることがあり、普段は重要だとは思わない。しかし重要なことでも、この基本的なものがないと、身動きできなかったりする。指の先もそうだが、足の裏が痛くなれば、歩くのに往生するだろう。重要な目的場所へ行くにも、足がしんどくなる。
 だからといって普段から当たり前のようにあるものを大事にするというのは、余程の人だ。ただ、そういうのが習慣になっている人もいる。
 部屋で取り出した物を、元に仕舞わないで放置する。いつもの場所にない。仕舞えば良いだけのことで、これは習慣だろう。態度、身のこなし、そういうことでお里が知れるとよく言われた時代もある。今なら、その里など、何処にあるのだろうかと思うのだが。
 飲食店などでおしぼりが出ても、使わない人がいる。使う人も何処まで拭くかだ。さらにそのあとのおしぼりを綺麗に畳む人と、そのままばらけたままの人。畳んだ人はテーブル上での置き場所まで考えている。こういうのは演技でできるが、意識していないとだめだ。また、一人でいるときも、綺麗に畳む人もいるはず。誰も見ていなければ、適当という人も。
 そういう人柄の問題ではなく、当たり前のようにできていたことができなくなると、日常のペースがやや乱れる。一つのことをするのに、倍以上時間がかかり、一日が短くなったりする。
 その当たり前のこと、壊れたものを買い直せば元に戻るような話なら簡単だが、戻らない場合もある。
 年寄りはできることが減っていくが、それは徐々なので、何となく納得できるし、日常のペースが遅くなっても、これも当たり前のようになる。
 そういう重い話ではなく、普段、当たり前のように使っていた物がなくなると、如何にそれが快適なものだったのかと改めて思うだけの話だ。その快適さが普通になっており、当たり前になっていたのだろう。
 
   了


2016年8月20日

小説 川崎サイト