小説 川崎サイト

 

今あるもの


 今あるものは大体昔からある。機能は違っていても、用途は同じとか、目的が同じとかだ。昔は男しかいなかったと言うことはないし、年寄りはいないとか、子供はいなかったと言うこともない。
 写真などなかった時代は絵を画いていた。写真が必要な用途を絵が満たしていた。ただ時間はかかるし、絵描きでないと似せて画けない。ただ、簡単な図などは絵の才が無くても画けた。そういうお手本があったためだ。
 電話がなかった時代は、それほど忙しくなかったのかもしれない。手紙などで間に合うような。または遠方の人でなければ、直接訪ねた方が早かったりする。
 郵便がなかった時代でも手紙を送ることができた。飛脚でなくても、そちらへ行く人に頼めばいい。または伝言のように言付ければいい。文字はいらない。
 これも何日も何週間もかかっただろうが、そんなものだと思っていたし、遠いところとのやり取りはあまりしなかったのかもしれない。
 便利なものが増えると、それだけ用件を早く済ませられるので、用件が増えたりし、昔よりも忙しくなったりする。家電の普及で家事が楽になったかというと、逆にサボれない。例えばたらいなどで手洗いしていた時代、それをやっている時間は長いが、その間、結構のんびりとしていたのかもしれない。ノコギリで木材を切っていた時代、切っている時間は、それなりに安定している。つまり用事をしっかりとしている時間とみなされる。いくら早い人でも、急いでやっても、それなりに時間がかかる。それは安定したひとときだったのかもしれない。さっと電動で切れてしまうと、次のことをしないといけなかったり、切る数が増えてしまう。そのため、早くできるがテンポが早すぎて休めない。
 仕事をしているときが休んでいるようなもの、ということではないが、非常に安定した時間を過ごしていたのではないかと思える。当然単純な作業なら、手先などがもうオート状態になるので、他のことを思いながら、淡々と用事を楽しんでいた可能性もある。いいペースで仕事ができているときに限られるだろうが。
 今、のんびりと手作業で、アナログ的なことをやっていると、非常にペースが遅くなり、逆にサボっているように思われるかもしれない。全体のテンポやペースが上がってしまったので、そう思われてしまうだろう。昔でも遅い職人がいたかもしれないので、何とも言えないが。
 そして、ネット時代。これは昔はそれほど必要ではなかったのだろう。今も必要としない人が結構いる。
 情報がどうのという話になるのだが、本当に必要な情報がネットでどれだけ取り出せ、また調べられるのかは、やや疑問だ。大きな百科事典のようなものに、簡単にアクセスできても、賢くなったとは限らない。多くの情報を知っているからといっても、同じことで、逆に迷ってしまったり、混乱したりする。
 合ったこともない人達と交流するのも、ネットの楽しさだが、それがなかった時代、文通とかがあった。手紙なので短い文章ではない。しかも手書きだ。結構時間がかかる。そういう手紙をしたためているとき、その間、時間もかかるのだが、書きながら相手や自分のことに時間をたっぷり使っていたのだろう。書きながら自分自身を整理しているようなところもあるだろう。ただの情報伝達や、コメントではなく。
 まあ、そんな時間があった時代の話で、今、手紙をじっくりと書くようなことは殆どない。しかし電話やメールやネット系のそう言ったものがなかった時代は、別の方法を使っていたのだ。
 だから、今あることは、昔からある。ものや方法が違っているだけのことだろう。
 そして、今やっている便利な仕掛けも、かなり経過すると、もの凄く古くさいことになり、誰も使っていなかったりする。電報のように。
 
   了

 


2016年8月29日

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