小説 川崎サイト

 

祭りの準備


 少し大きい目の目的を果たすには、それなりの準備が必要だ。種を蒔いたり、水をまいたりと。
 その準備は何段階もあり、揃うものが揃わないとできないため、目的とは関係のなさそうなこともやる。目的からかけ離れているのだが、それをすることで、先へ進むことができ、より目的に近い準備を進められる。何をするにも身体を使う。だから、目が悪いとか老眼だと、眼鏡から買うことになる。これは目的とはかなり離れているが、よく見えないと、準備もできないだろう。
 しかし、かけ離れすぎていると、最初の目的が何だったのかを忘れてしまう。そこへ向かう一歩には違いないのだが、他の目的でも使える。
 さて、その大きな目的だが、準備が遠大すぎて、なかなかフィニッシュを掛けられなかったりする。赤穂浪士なら討ち入りがフィニッシュに近い。一番分かりやすい。いよいよ決行したと。
 一年二年で済む話ならいいが、十年も二十年もかかる目的もある。これはそのうち忘れてしまうかもしれない。また年数が経ちすぎると、初期の目的に、もう魅力を感じなくなっている可能性もある。
 人は何等かの目的を持つと、計画を立てたり、そうなるように歩を進める。これは一種の企画だ。ただ、目的は色々あったりする。小さな目的もあれば中ぐらいもあるだろう。簡単なものもある。だから、ここでは大きな目的に限っての話だ。その人の生き方に関わるような。本命中の本命の。
 難しい言い方をすれば投企。これは自分の存在と関わる。目的が自分の存在なのだ。これはややこしい。これは投資に似ている。自分のために投資する。何をするための投資なのかは分かりにくい。将来儲かるように投資するとかなら分かる。自分を磨くために投資するとなると目的がしっかりしない。だから投企では自分になりたいのだろう。その自分になるために、色々と未来に投げる。または投企し続けていないと自分の存在が見えてこない。これはややこしい。
 この切り口はいいのだが、具体的な絵が見えない。何か精神的な細さを感じる。うどんのように太くない。
 そして自分の存在とは何かになると、これはもう迷宮だ。そちら側へ行くと何をしているのか分からなくなる。だから、普通よくあるような目的を題目にしている方が健全だろう。具体的な何かになりたいとか、何かを手に入れたいとか。またはこういう状態の人になりたいとか。
 抽象的なものは何とでもある。精神的なものも。人は結構、物で落ち、色と欲で落ちる。
 さて、大きい目の目的を果たすための準備だが、遠大すぎるほど持ちがよかったりする。ただ準備中にこれは無理だと分かると、引くだろう。
 しかし、コツコツと準備をし、赤穂浪士の討ち入りのように、雪の降る夜、松坂町で一気に目的を達成するのは気持ちがいいだろう。そのあと、あまりいいものは待っていないが。
 我慢した分、気持ちがいいことが得られる。これは一種の快感だ。そんな難しい話ではない。
 
   了

 


2016年9月8日

小説 川崎サイト