小説 川崎サイト

 

一家言


 一家言というのがある。その家や家族の言い伝えや家訓とは違う。結構個人的なことだ。個人単位ではなく、家単位が基準だった時代にできた言葉だろうか。一族でもいい。しかし今では独自の意見とか、見解を示す人。
「あの人は一家言がある」などが、今の使い方で、たまに耳にする。意見とか見解は誰にでもある。しかし、独自の、となるとぐんと減る。他の人に聞いても似たような意見だが、その一家言ある人に聞くと、誰も思っていなかったような意見を言う。そうでないと、一家言の意味がない。一家言家という職業はないが、評論家などがそうかもしれない。ただ、他の評論家と同じようなことを言っていると一家言ではなくなる。
 正論というのは多くの人が言う。だからここに一家言を求めようとしても、独自性が薄いため、無理。
 お家の事情、家庭の事情、お国の事情、個人の事情にまで下げないと、独自性は出しにくい。また、妙な意見とか珍奇な意見とかでは、家という格がない。一家言なので、まだ家のイメージがあり、これは個人よりも重みがあるし、リアルだ。一家をなすの一家だ。一人前という意味でもある。
 一家言ある人はうるさい人に思われる。ある決め事をするとき、きっと何か言い出すはず。ただの言いたがりかもしれないが。
 独自の意見、他の意見と違っていればそれでいいわけではない。そこに一家言の家が出てくる。家訓や家の慣わしとかだ。その家の、その一族の流儀のようなもの。これは疎かにはできないだろう。個人が勝手に言っているような意見とはまた違う。背景に重みがある。だから一家言のある人は、それなりの重みがないと駄目だろう。
 この家とは背景のようなもので、とってつけたようなものではない。これは良家を指すものではなく、境遇のようなものを指すのだろう。そこで培ってきた何かを持っている。
 そのため、あることばかりをずっとやっている専門家の意見が一家言ありそうだ。その場で思い付いた意見ではなく、裏打ちのようなものがある。
 この専門性のようなものは、専門家でなくてもいいし、職種や事柄とは関係しない。そして本当に一家言のある人は黙っていたりする。
 
   了


2016年9月13日

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