小説 川崎サイト

 

山の怪


「本当にあった学校の怪談と、本当にあった山の怪談の違いは何でしょうか」
 いつもの妖怪博士付きの編集者が来訪後、すぐに切り出す。そんな切羽詰まった問題ではない。そんなことどうでもいいような話なのだが、子供向けの妖怪やミステリーの雑誌を編集しているだけに、この違いが重大なようだ。そんなもの、子供だましで、適当でいい。その適当な解を期待して、妖怪博士に聞きに来たのだろう。
 しかし妖怪博士は博士である以上、適当なことを言うわけにはいかない。
「学校の怪談とは便所の花子のことかな」
「トイレの花子さんは古典です。古いです」
「あ、そう。だから、麓の花子さんや、山腹の花子さんや、峠の花子さんや、山頂の花子さんや、谷間の花子さんのようなものだろう」
「花子さんとは何ですか」
「女の子だろ。トイレに常駐している。私は便所の神様だと思うが、これは糞神では汚い。だから花紙の花子さん」
「花紙って何ですか」
「ちり紙だ」
「はい」
「学校ネタが切れまして、今は山です」
「何がかな」
「ですから怪談です」
「しかし、山は里と違い、人などいないので、幽霊も見せる相手がおらんので、出ぬだろう」
「登山者がいます。目撃者の殆どは山登りの人です。ハイカーです」
「昔なら、木樵とか猟師が山の怪に遭遇していたらしいが、天狗や自然現象に近いもの。いわば妖怪じゃな」
「しかし、赤いリュックの幽霊とか」
「それだな」
「え、分かりません。意味が」
「違いはない。学校の怪談と同じじゃ」
「どういうことですか」
「木樵が目撃者なら、木樵らしい怪異に遭遇する。山伏なら、山伏らしいもの。これは天狗がそうだ。猟師ならケモノ類の怪異。また山に入っている人は、仕事で入っておる。ところがハイカーは遊びで来ておる。その違いはあまりないが、ハイカーはハイカーらしい怪異と遭遇する。それだけの違いじゃな」
「はあ」
「便所の花子は、小学生や中学生の視線。これが老人ばかりが出入りするような便所なら、便所の婆さんが出る」
「つまりニーズに合わせて」
「違いがあるとすれば、目撃者が違うだけで、学校でも山でも変わりはない」
「あ、はい」
「だから、古典的な山の怪など最近誰も体験せんだろう」
「そうですねえ。幽霊や怪異にも子供向けと大人向けがあるんでしょうねえ」
「しかし、子供から年寄りまで共通して見えるものもある」
「はい」
「犬は犬で、また何かを見ている。犬だけが見える何かだ。猫は猫でそうだし、鼠も鼠だけが感じるものを持っておる」
「あのう」
「何かな」
「山小屋の花子さんなんですが」
「そんなものがいるのか」
「使われていない山小屋に出ます」
「便所の花子が山小屋の花子になっただけ。しかもその山小屋、登山者向けだろ。頂上にあったり」
「そうです」
「そんな山頂に小屋など建てるような罰当たりは昔はおらんかったはず」
「はいはい、御山は神様が住んでおられますからねえ」
「そうじゃ」
「つまり、山も都会化してきたのですね」
「だから山小屋の花子が出てもおかしくない。これが山の中の祠や社なら、花子ではなく、別のものが出る」
「山姥とかですね」
「それで赤いリュックの幽霊なのですが」
「ああ、だから昔なら腰の曲がった老婆が籠を背負っている、となる。そんなもの今の人間は見たことがないじゃろ」
「じゃ、違いはない、でいいのですね」
「ああ、怖いものが変わったのだろう」
「でも、猟師や山仕事の人の目撃談もあります」
「そちらの方がオーソドックスな怪異で、聞いていて退屈だろねえ」
「そうですが、死者と山で遭遇する話が」
「死ぬと山に行くという言い伝えがあるからな。海の彼方へ行く言い伝え、天でも良い。要するに遠い彼方へ帰ると言うことだろう」
「しかし、街中の怪談より、山の怪談の方が怖そうです。自然の中での目撃ですから、やはり違いがあるのでは」
「男の幽霊と女の幽霊の違い程度だ」
「海洋の怪異もありますねえ。船乗り達が見る」
「海洋ものは今は寂しいだろう。あまり船に乗る機会はないからな」
「はい」
「でも海のミステリー、空のミステリーは定番がありまして、これは外せません」
「そうか」
「しかし、解答が」
「何の」
「学校の怪談と山の怪談との違いです。同じようなものでは、解答になりません」
「だから、そんなもの、どうでもいい話じゃ」
「そうなんですが、何かいい言葉はありませんか」
「人は用もないのに山に入るな、それだけじゃ」
「それは解ではありません」
「それよりも、死者に会うどころか、わざわざ死者になりに行くハイカーがおるじゃろ、そちらの方が奇っ怪じゃ」
「はい、あとは自分でまとめます」
「君は編集者だろ。それが仕事じゃないか」
「はい」
 
   了


2016年9月19日

小説 川崎サイト