小説 川崎サイト

 

尺取虫


 一日の気配がある。これは起きてしばらくすると分かる場合もあるし、起きた瞬間もある。プレッシャーのかかる用事がある朝や、体調が優れない朝があり、天気のようなものだが、体調だけ、気分だけではなく、その全体が気配となって出る。要するに起きたとき元気がどうかだ。冬場なら蒲団離れが早いかどうか。これは心身の問題だろうか。心が悪いときは身も悪くなる。痛いところがあれば、気分も元気ではない。
 また、体調は良いのだが、嫌なことをしなければいけない日は蒲団離れが鈍い。床離れは病気に関係するが、蒲団離れは精神的なものが大きい。しかし本当に体調だけが悪い朝もある。この体調とは身体の調子が少し良くないという程度で、病気と言うほどのものではない。この状態と精神的な状態、つまり面倒なことをしないといけない日などが重なると蒲団離れが遅くなる。それでも普通の人は嫌々起きてきて、嫌々仕事なり、用事をするのだろう。
 また楽しみにしていたことが終わった翌朝なども、何となく淋しい。祭りの後のように。
 しかし、寝込むほどでもなく、医者にかかるほどでもない程度なら平穏無事に過ごしている内だろう。
「最近元気がないようですが」
「いやいや、この状態が一番望ましいのです」
「あ、そう」
「元気なことをすると、あとが偉い」
「それはありますが」
「私は尺取虫のお爺さんになることに決めたのです」
「はあ、変身ですか」
「馬鹿な、人が虫にはならんわい」
「そうですねえ。でもなぜ尺取虫ですか」
「ゆっくりしているからね」
「あれはあれのクラスの虫の中では早い方じゃないのですか。あのバネを活かして飛んだりとか」
「そうなの」
「知りませんが」
「だから、本物の尺取虫ではなく、尺を採りながらゆっくりと一歩一歩進むのです」
「尺取虫に足、ありましたか」
「その問題じゃない」
「でも一尺は三十センチ程です。三十センチの歩幅はそれほど短くないですよ」
「尺取とは定規のようなものじゃ。指定規。つまり親指と人差し指を伸ばす。次は伸ばしきった人差し指のところに親指を持ってきて、そこを起点にまた人差し指を伸ばす。これでこの動作を何回やったからで長さが分かる。その動作が尺取虫が伸び縮みしながら前に進んでいるのと似ているので、尺取をしているように見えるため、尺取虫と名付けた」
「長い解説でした」
「この一定のゆるいリズムが良いのだよ」
「でもあの虫、蛾か蝶の幼虫でしょ。イモムシですよ」
「そうだ」
「じゃ、モスラになるかもしれませんよ」
「そんなに大きくならん」
「でもいずれ蝶か蛾かは分かりませんが、飛びますよ。尺取虫は地味ですが、もの凄く派手なやつだったりしますよ」
「だから、幼虫のままで良いという意味もあるんじゃ」
「はい、好きなものに変身して下さい」
「うむ」
 
   了




2016年9月22日

小説 川崎サイト