小説 川崎サイト

 

旅行の話


「最近どこかへ行かれましたか」
「毎日出かけていますが」
「ああ、それは何よりです。で、どちらへ出かけられました」
「近所です」
「名所があるのですか」
「別に」
「旅行とかは」
「あまりしません」
「近場にはないような珍しいものがあるでしょ」
「ありますねえ」
「そういうのをご覧になりたいとは」
「まあ、いろいろと行きましたから、もういいです」
「でも、行かれていない場所もあるでしょ」
「ありますなあ」
「たとえば」
「たとえばですか、そうですねえ、出雲とか」
「いいですねえ、出雲」
「伊勢は小学校の修学旅行で行ったので、見ましたが、出雲はまだです」
「じゃ、行ってみたいと」
「まあ、出雲に行けば神様がうじゃうじゃ歩いているのなら別ですが」
「それはありません」
「テレビのドキュメンタリー番組で出雲大社をやっておりまして、普通には見られないところまで撮していましたよ。それを見て、行ってもそれを超えられないと思うと、今ひとつです」
「でも旅行というのは途中がいいのですよ。それにテレビと実際とは違うでしょ。意外としょぼかったりしますが、臨場感があります」
「体感ですか」
「そうです。だから旅行へ行くのですよ」
「でも、近所でも」
「やはり日常の見慣れたものから離れて、違う世界をさまよう感じが旅行の良さです」
「万札が惜しい」
「旅費の問題ですか」
「戻って来たとき、お金が減っただけで、何も残りません。土産物を買ってくれば残りますがね」
「思い出が残るでしょ」
「昔に行った場所など、無理に思い出さない限り、沈んでいますよ。聞かれたとき、急いで思い出しますが、もう断片的で、わずかなことしか思い出せない」
「いや、旅行はライブです。旅行中を楽しむのですよ」
「近所ではだめですか」
「近所のお散歩とはスケールが違います。それに一泊か二泊するわけですから、すぐには戻れません」
「それは分かっているのですがね、年を取ると億劫になるものですよ。体調もありますし、疲れやすい。ですから、よほどのことでもない限り、行ってみようとは思わなくなりました」
「よほどのこととは」
「だから、神無月に出雲へ行けば神様がうじゃうじゃいるとかです。まあ、それはあり得ない話ですが。それと」
「何ですか」
「戻らないといけないでしょ」
「帰り道も、また旅行のうちですよ」
「普通の観光地のコースでは今ひとつインパクトがありません。これは見に行かないといけないと思うようなね」
「はい」
「あなた旅行社と関係のある人ですか」
「いえいえ、実は私も旅行が苦手といいますか、出掛けるのが大層な口でして」
「出不精」
「そうです。これじゃいけないと思い、気合いが沸くように、こんな話をしただけです。奮い立つように」
「ああ、そうなんですか」
「逆に、あなたと話していると、出不精でもいいかと思ってしまいました」
「無理に行く必要はないでしょ」
「そうですねえ」
 
   了



2016年12月8日

小説 川崎サイト