小説 川崎サイト

 

紀三寺の胎内道


 紀三寺から向こうへは行かない方がいい。それを観光客は知らない。特に真冬は。
 紀三寺は桜の名所、秋は紅葉の名所。山の中の寺だが、支線駅からバスでわずかな距離しかない。車で来る人も多い。観光バスが広い駐車場に並んでいることもある。
 紀三寺の向こう側といえば山岳地帯。もう町も村もない。この地方の屋根のような場所。
 観光客が紀三寺の向こう側へ行くことはまずない。一番奥に奥の院があり、そこまでだ。その端は崖っぷちで、荒々しい山塊となり、全く違う山の相になる。さすがに崖を超えてまで奥へ行かないだろう。しかし、渓流への降り口があり、川には石橋が架かっている。大雨が降ったあとは石橋は見えなくなる。
 奥の院の裏側を少し行くと、その渓流を見ることができるが、柵がしてある。落ちないようにだ。
 奥の院がある場所は既に山なので、観光客は来ない。そこからは伽藍はもう何も見えない。そして、奥の院のお堂の裏側まで行く人はさらに少ない。ましてやその端っこまで行く人はほとんどいないと言ってもいい。
 だから紀三寺の向こう側へ行ってはいけない言い伝えは、伝わらなくても、誰も立ち寄らないので不要かもしれない。
 高橋はそのことを寺の前に並んでいる食堂で聞いた。食堂や土産物屋が軒を連ねているのだが、その一軒だけが寂れている。そのため、すいているので高橋は入った。なぜ流行らないのかは主人の顔を見て分かった。やつれた老人にしか見えないが、まだ若いらしい。
 観光料金で高いので、高橋は一番安いきつねうどんを食べているとき、黒くすすけた柱に貼られてあるお札が気になった。
「これは大黒天のお札ですよ」
「商売繁盛ですか」
「違います。魔除けです。これを早く貼るべきだった。まあ、手遅れですがね。それにこれじゃなくお守り袋があれば、このようなことにはならなかった」
 どのようなことなのかと高橋は想像する。きっとこの店だけが何かに呪われたように寂れているためだろうか。
「紀三寺の向こう側へ行ってはいけませんよ。あれは気味の悪い寺なので紀三寺じゃなく、気味悪寺じゃ」
「でも、観光地でしょ。こんな寒い季節でも遊山で来る人が多いじゃないですか」
「ああ、寺はどうもない。向こう側がいけない」
「どうかしましたか」
 この主人が老人にしか見えないようになった理由を聞くようなものだ。そして店も流行らなくなった。
「あれはまだ少し前の頃だが、もっと美味しい出汁を作ろうと、渓流へ行った。この辺りじゃ紀三峡と呼んでいるクレパスのような谷だが渓流釣りの連中も、そこへは行かない。魚がおらんからじゃ」
「はい」
「奥の院から下へ降りられる。そこで水を汲むのが日課になっておったのだが、石橋がある。向こう岸へ渡れるのだ。それで何気なく渡った。橋があれば渡りたくなるだろう。向こう岸で汲んでも、こちらで汲んでも同じことじゃが、石橋の向こう側に道があるのを見つけたのだ。いや、隙間のようなものか。トンネルのように見えるが、天井はある。岩と岩の隙間のようなものだろう。つまり、向こう岸の山からの降り口かもしれないと思い、中に入って行った」
「はい」
「胎内道とでも言うべきか、岩と岩との隙間を縫うように続いておる。土管でもくぐるような狭い穴になっていたりな。そして抜け出たところは見覚えのある場所。上を見ると奥の院のお堂が見える。渓流を渡り直した覚えはない」
「はい」
「それで、来た道を戻るように奥の院の裏側に出て、しばらく本堂のある賑やかな場所まで歩いていたのだが、人がいない。朝なのでそんなものだが、本堂の横を通るとき、いつもと違う気がしてきた」
「はい」
「汲んできた水で出汁を作ると、やはり味は水で決まるのだろうなあ。いい出汁が出た。それからだ」
「それから」
「それから急に老け始めてなあ」
「はあ」
「客も減りだした。こんな美味しい出汁なのに」
「あ、はい」
「紀三寺に死にかけの長老がいてなあ。その人がたまにうどんを食べに来る。その話をすると、怖い顔をして、そこに貼ってあるお札を貼ってくれた。もう手遅れだが、少しはましになると」
「こ」
「え、何じゃ」
「このきつねうどんの出汁は」
「それはただの水道の水だ。もうあそこへは行っておらんから心配するな」
「あ、はい」
「長老によると、胎内戻りがあるらしい」
「若返るのではないのですか」
「さあ、それは知らんが異境だ。たまにぱっくりと口を開けるとか。あの長老もそれを見たらしいが、橋は渡らなかったようじゃ。それは昔の言い伝えで、あれは入り口ではなく出口。入り口は向こう側の御山にある。だから胎内道を逆に巡ったようなものらしい」
「はい」
「紀三寺の古い住職の記録に、そのことが載っておるが門外不出。あれこそ魔界だとな。それで大黒天を祭ればよいとなっておる」
「はい」
「奥の院には不動明王が祭られておるのだが、その横に大黒天がおる。大昔の住職が置いたのだろう」
 高橋は勘定を払い、すぐさま紀三寺の山門を潜り、団体客を避けながら駆け抜け、奥の院への坂道を上り、その端の崖っぷちから下を見た。確かに深くて狭い渓谷、そして降り口もあるし、石橋も見える。
 さて、どうするか。
 石橋の手前に来たとき、木の枝で石橋を叩いた。石橋を叩いて渡るというやつだ。
 すると、甲高い音が渓谷に響き渡った。これはやはり、まずい場所だと思い、引き返した。
 奥の院の裏側に出て、そこから境内へと戻るとき、あの食堂の主人のようになってしまわないものかと心配した。
 しかし、境内は観光客で賑わっている。
 そして参道沿いのあの食堂の前を通るとき、そっと中を覗いた。相変わらず客は一人もいない。そして、あの主人がこちらを見ている。
 高橋が軽く会釈すると、主人も歯の抜けた黒い口で笑いながら軽く頷いた。
 その後の高橋だが、特に異常はない。
 
   了

 


2017年3月2日

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