小説 川崎サイト

 

妄想散歩

 
 見知らぬ町に入り込んでも、しばらくすると見知っている町になる。しかし知っていることは僅か。これは初めて見た町でも、毎日のように見ている町でも、それほど変わらないように思える。見ているだけ、ということでは。
 そのため初めて訪ねる町でも、見た覚えがあったりする。上面だけは見知っているのだ。
 見知らぬ人が歩いていても、見たことのない服装や、風貌ではない限り、自分の近所の人と同じようなものなのだ。
 また見たことのない車、見たことのない道路標識なら、これこそ未体験ゾーンだろう。まさに見たことのない町。
 そこまでいかなくても初めて入り込む町は新鮮だ。予測できるようでできないため。この先何があるのかが分からない。どんな建物が見えてくるのかが見えていない。
 しかし初めて見るものでも既知のものが多い。中身はほぼ分かっているのだ。多少の違いはあるが知っているものだ。駅などがそうだろう。その駅を見るのは初めてでも、そのからくりは同じだ。知っているのだ。
 またよく知っている駅でも駅員の顔までは覚えていないかもしれない。小さな駅で駅員が少数なら別だが。またそれは知る必要もないので、見ていなかったりする。
 高橋はそんなことを思いながら、見知らぬ町を訪ね、怪しいものを見る悪趣味があるのだが、そうそうあるわけではない。それを知っているだけに、妄想を先立たせている。先立つものが違うのだ。
 その妄想とは、怪しい家があり、怪しい人達が何やらゴソゴソしているとか、ちょっとした町内だが、実は一人の地主の私有地だったりとか、長年争っている一族同士が、今も戦うため、私兵を雇っているとか……等々。
 また旧家には必ず奥深いところに座敷牢があり、近所の人は誰も見たことのない何者かが幽閉されているとか、家族も知らない秘密の部屋があり、地下へ降りる縄柱があるとか、二階建てなのに三階に隠し部屋があり、さらにその上にもう一層あったりする。もう空に出てしまうが。
 高橋はそういう妄想をいだきながら見知らぬ町に入り込んでいる。知っている町より、知らない町の方が妄想を広げやすいようだ。事実関係が分からないためだろう。
 しかし、それらの妄想ネタもが底をつき、最近はただのよくある散歩者をやっている。
 どちらにしても一人でしなくてもいいようなことをしているのだから、何をどうしようと好きなように歩けばいい話だろう。
 
   了

 


2017年4月3日

小説 川崎サイト