小説 川崎サイト

 

高嶺の花

 
 これというものがないまま高峯は年を取っていった。名前からすると高い峰を向かう人のようだが、姓名判断では、名の意味までは観ない。名前負けしているわけではない。低い峰という名で丁度なのだが、若い頃から高嶺の花を目指していた。高嶺、高山植物だろう。そこまで登らないと見ることができないので、価値があるのかもしれない。高値だ。
 寄る年波になってから高嶺は無理だと分かると、これということもなく日々過ごすことになる。要するに大きな目的をなくしていた。これというものとは、そういうものだ。その「これ」がない。
 だが「あれ」がある。これを「あれこれ」というのだが、それでは散ってしまう。そして「これ」も「あれ」もどちらも無理だとなると、あれということも、これということもないまま過ごすことになる。
 これではいけないと思い、一回り年上の先輩を訪ねた。道士のような人だ。しかし、あまり寿命は残っていない。
「明日に向かって生きることじゃ」
「その明日なのですが」
「明日は来るだろ。来年は分からぬが」
「将来に向かって生きるわけですか」
「いや、君の場合、その将来に既に達しておる。わしなど達しすぎじゃ」
「では、明日に向かって生きるとはどういう意味ですか。その場合の目的とは何でしょうか」
「目的があれば解決かな」
「そうです。何となく日々を過ごすよりも」
「これということもしないままじゃなく」
「そうです。これということをしたいのです」
「じゃ、明日のためにやりなさい」
「え、何をですか」
「短期」
「短い?」
「長くは見積もれんので、明日の距離が丁度」
「はあ、その日、借りて、翌日支払うような」
「明日いいことがあるように、今日、仕掛ける」
「明日に向かってなら、明日だけですか」
「そうじゃ」
「では、何をすれば」
「そんなこと、わしには分からん。そこは考えなさい。明日楽しめるようなことを」
「一日でできることですね」
「分割してもいいし、途中を楽しむのもいい」
「たとえば」
「そんな個々のことなど、わしは知らんが、たとえばやらないといけない用事をすれば、明日休めるということだわ」
「では、その明日は休んでいるだけでいいのですか。その日も、また次の明日のために何かしないと」
「何かした成果をその日は味わえばいい。その翌日は、さらに翌日のための何かをする。これといったことをな。その成果は翌日でないかもしれんが、少しは進んでおるはず。だから、ここは途中経過を楽しむ」
「道士様はそういう過ごし方をされておられるのですか」
「いいや」
「え、されていないのですか」
「言うだけ」
「では、明日に向かって生きるというのは、ただの話ですか」
「まあ、そうじゃ」
「しかし、やってみます。どうせ、これということをしていませんので」
「ああ、そうしなさい」
 高峯は明日成果が出そうな小ネタを何本も仕込むことにした。それらのネタは殆どが暮らしぶりのことだったが、その中に若い頃からの夢も入れた。
 若い頃からいくら頑張っても無理な話なのだが、それに向かっているだけでもいいようだ。
 それで一応「これということ」をやっていることになるらしい。
 
   了

 


2017年5月7日

小説 川崎サイト