小説 川崎サイト

 

ある北帰行

 
 木造アパートの二階。その階段は内側にあるが、横殴りの雨では濡れることもある。それで腐りかけの木の階段を田所は重い足取りで一つ二つと足を上げる。上の方は屋根のおかげで腐ってはいないが、ほこりが溜まり、風が吹くと目に入る。三十年前からこの階段を田所は上がっている。二階の一室に住む友人を訪ねるためだ。吉村という級友で、三十年前からずっとここに住んでいる。六畳一間なので夏場など西日がまともに来る。エアコンはなく、ここで扇風機だけで三十年も夏を越したのだから、凄い人物か、または単に慣れただけかもしれない。
「相変わらずかな」
「夢を見る」
「もう遅いけど、立身出世のかい」
「いや、階段の上がり下りができなくなる夢」
「まだ、そんな年じゃあるまいし」
「僕はその年でなくても、階段が年寄りだ」
「そういえば腐って、欠けているところもあったなあ」
「まあ木の梯子だと思えばいい。無事なところを足場にすればね。真ん中辺りが最近怪しい。端がいい。手を使う必要がそろそろある」
 昔は線路の枕木と同じ色だったが、最近は塗っていないようで、白っぽい。黒髪が白髪になったような感じ。
「階段は一つだったねえ」
「そうだ。あれが使えなくなると、二階へはどうして上がる」
「梯子をかければいいんじゃないか」
「家具など買ったときはどうする」
「つり上げるしかないね」
「実際にはこのアパートが問題なのではなく、僕が問題なんだ」
「そうなの」
「こんなところに三十年も住んでいるからだ。引っ越せばいいのだが、金がない。しかもここより安い家賃は探してもない」
「それは僕も同じだよ」
「君はもう一つランクの高いアパートにいたねえ」
「二間ある。風呂もある」
「しかし、君も三十年か」
「そうだね。動いていない。それにそろそろ立て替えてマンションにするらしい」
「まあ、お互いに三十年も粘ったのだから、もう十分だろう」
「田舎に帰るしかないねえ」
「そうだね」
「しかし、何をしに来たんだろう。そして三十年も何をしてきたかだ。それを考えると、辛いねえ」
「いや、生きているだけでも」
「ところで、僕はまだ写真をやってるけど、君はまだ絵は描いているの」
「あれは方便だ」
「そうだったねえ」
「都を捨てて国へ帰るか」
「北へ帰る夜汽車はもうないけど」
「夜行バスになるねえ」
「錦は」
「錦を買って、お土産とするか」
「そうだね」
 
   了





2017年7月15日

小説 川崎サイト