小説 川崎サイト

 

クラゲ男

 
 他にやることがないので、適当なことをやっている竹下が、本当はそれほど好きなことではないし、自分らしくもないことが結構ある。この適当というのは程々によいことなのだが、程々にしておきなさいの程だ。適材適所の適でもあり、一番妥当で、好ましい状態。しかし、この適当は、テキトーで、いい加減な状態。だから、加減がよいと言うことで、悪い意味ではないが、イイカゲンとなると、あやふやで、しっかりしてなく、手を抜いたりと、加えたり減らしたりするバランスがよい状態だとは思われていない。手加減しないわけで、それは考慮が足りないのだろう。
 これは「よいかげん」ではなく「いいかげん」のためだろう。決して良い加減ではない。もしそうなら皮肉だ。
 竹下がイイカゲンで、テキトーなことをしているのは、軽はずみなため。この軽さは体重をかけないことで、本腰を入れていない。つまり本気ではない。いつも腰が引けている。それはあまり好きなことではないためだろう。また、それに打ち込むほどのものではなかったりする。この余裕がテキトーさを生み、イイカゲンになる。これは決していい湯加減のようなものではなく、そこはテキトーなのだ。
 竹下はやることがないので、適当なことをやっているのだが、本腰を入れてしっかりとやるようなものが実はない。それはあるのかもしれないが、そういった好きなものはすぐに手に入るが、すぐに消えてしまう。だから逆に好きではないことをやっている。やっているうちに好きになるかもしれないが、ほぼならないことは分かっている。
 テキトーでイイカゲンなのは自分を乗せないためだ。つまり大きな意味を与えたり、それに生きがいなどを見いだす気がないため、自分というのを結構殺せる。そのため、自己主張が少ない。自分が自分が、ということにはあまりならない。これが意外といけるようで、他にやることがないので始めたことなのだが、長続きしている。ただ、淡泊というか、いつも引いて見ている。まるで他人事のように。要するに自分事が過ぎるとトゲができる。
 その動きはまるでクラゲのようで、何処に芯があるのかよく分からないが、クラゲはくにゃくにゃと動きが不安定そうに見えるようでもしっかりと舵を取っているのだろう。
 
   了



2017年7月18日

小説 川崎サイト