小説 川崎サイト

 

変な人

 
 世の中にはおかしな人がいる。可笑しいのではない。変なのだ。そういう人とは付き合わない方がいい。一般常識が通じない箇所があるためだ。常識を疑え、という言い方もあるが、それを疑い出すと不便になる。不便というのは便が出ないことではないが、すんなりとこなせなくなる。
 かなり変わった発想の人でも、それ以上に怖いような発想をする人が現れると、常識に頼る。あまり好きではない一般常識をそこで持ち出す。常識とは普通の人が普通にやるようなことで、この普通も特別なことと区別する程度の使い方でいい。何が普通なのかという臭い話は、ここではしない。一般に頼る。それは、よほど変な人相手のためだろう。
 溝口にも武田という妙な友人がいるが、その付き合い方はよく心得ている。話が何処か妙な雰囲気になる手前で何となく分かり、その話には乗らない。さっと聞き流すか、話を変える。すると、武田はつけ込む隙がないため、諦めるようだ。
 これはお互い様で、今度は溝口は妙な話を始めると、武田も同じようにストップをかける。どちらもその関所を持っているのだろう。しかし、それではお互いに話が展開しないので、面白みがなくなり、それほど親しい関係にはならない。
 溝口が考えるところでは、武田の甘えに隙を与えてしまうと増長するようで、これは最初は受けがいいのだが、相手のペースにはまることになる。これは溝口の油断だ。
 自分の考えを通そうとするタイプに、変な人が多い。自分の考えより、他の人はどう考えるだろうかと言うところが欠けていたりする。これも自己主張なのだが赤ん坊のような甘えに近い。子供でも人の目は気にする。人の顔色を見る。これは悪いことのように思われがちだが、その自己主張の発生元が幼稚な動機なら、主張もくそもない。
 変な人でも、変な人を装っている人は罪は軽い。その自覚がなくなったとき、一般とか、普通とかの水平が傾いているのだ。一種の病気だろう。常識の水平、そんなものは実際にはないのだが、とりあえずのお約束ごとがある。これは簡単に破ることができるのだが、そうしないのは、ぎくしゃくしてしまい、本人も不愉快になるためだろう。そして不便になる。不便を覚悟でも通さなければいけないことなど希だ。
 常識というのはいちいち考えなくても分かっていることで、習慣化され、慣習化されている。これを使う方が便利なためだ。交通信号のようなものだ。赤なら進まない。進んでもいいが、事故になるだろう。
 非日常があるように、非常識がある。しかし人が過ごしている世界はほぼ日常。非日常な展開になることもあるが、滅多になく、またすぐに日常に戻る。以前とは違う日常かもしれないが。
 溝口が武田の非常識を嫌うのは、それを許すと、武田が得をするだけ。甘えを許しているようなものだ。溝口の我慢によって武田が喜んでいるだけで、これはフェアーではない。
 当然溝口にも寛容度があり、それなりに融通は利くのだが、武田の自己愛を喜ばせるだけの奉仕になる。
 武田は人の親切につけ込んでくるタイプで、これも気に入らないが、その攻防戦は、それなりに楽しめるので、今も付き合っているが、これを親友といえるかどうかは分からない。
 常識というのは凄いカードで、決め技になることもあるが、その常識の打ち合いをやると、ものすごく非常識なことになる。そうなることが実は常識として分かっていたりする。
 
   了


2017年7月25日

小説 川崎サイト