小説 川崎サイト

 

貞子井戸

 
 創業が明治の初め頃という古い会社に田村は就職した。昔からその名は聞いたことはあるが、大企業ではない。パッとしないので、今も続いているのだろうか。古いからといってやることなすこと、全て旧式ではない。
 数社受けた中で、ここに運良く入れた。正社員なら何処でもよかった。
 夏の終わり頃、田村は海へ行くことにした。会社の寮があり、夏場は海の家になる。浜辺にできた小屋ではなく、松林の奥にある。テニスコートなどもあり、一寸した屋敷街だ。別荘が多いのだろうか。交通の便は悪くはないが、よくもない。
 その寮は社員なら誰でも泊まれる宿舎ではなく、海水浴シーズンだけ開いている海の家のようなもので、シャワーもあり、広い座敷もある。夏場は何人かが来ている。顔見知りの先輩に会うのが嫌だったが、知らない社員ばかりなので、気楽に過ごせた。実際には着替えをして、さっと海へ行くだけで、寮内で寛ぐようなことはなかったが、雨が降り出したため、泳ぐのをやめて、寮へ戻った。すると無人。雨でもう帰ったのだろう。
 寮といっても、普通の瓦葺きの平屋で、二階はないが天井は高い。襖や障子は全歩開け放たれており、そこから庭が見える。苔むした庭で、夏場でもここにいると涼しい。ブランコもある。家族連れも来るためだろう。
 田村は誰もいない大広間の真ん中で大の字になって寝ていたのだが、昼食を食べ損ねたのか、腹が減ってきた。
 無人とはいえ管理人のおじさんがいる。それと婆さんが。これは近所の人だろう。
 何か食べるものはできるかと聞くと、そんな用意はないが、出前を頼めるらしい。近くに食堂があるのか、そのメニューを出してきた。田村は玉子丼を頼んだ。おじさんがすぐに電話をした。
 出前が届くまで暇なので、屋敷内を見学したが、タネも仕掛けもない間取り。全部開けているので、あとは炊事場程度。ここは使われていないのか、お茶を沸かす程度のようだ。昔の竈があるが、流石にそれは死んでいる。しかし外から見えていた煙突の根元は、この竈だったのだ。そしてもう一本あったようなので、その根本を探すと、風呂場だった。薪で焚いていた時代があったのだろう。今はこの風呂へ続く廊下際にシャワー室や脱議場が並んでいる。
 フォーサイクルのエンジン音がし、すぐに勝手口が開く音。出前がカブに乗って来たのだろう。
 田村は大広間に戻り、大きな黒光りするテーブルの前に座る。そこに玉子丼が運ばれてきた。重そうに持ってきたのは婆さんだ。
「食べたらお帰りですか」
「あ、はい」
「食べ終えたら言ってくださいな」
「はい」
 管理人のおじさんはもう帰ったのか、姿を見せない。
 婆さんも早く田村に帰って欲しそうだ。それで寮を閉めるつもりらしい。雨で来る人がいないので。
 玉子丼を食べていると、また婆さんが入ってきた。
「台所へ行きなさったかのう」
「あ、はい。一寸覗きました」
「井戸の蓋を開けてはならんのに、開けてしまいましたかのう」
「井戸なんてありましたか? それにあったとしても開けはしませんよ」
「そうかのう」
 貞子でも出てくるのだろうか。
 田村は婆さんがせかせるので、一気に食べ。寮を出た。
 それだけのことだが、数年後、そのことが気になった。
 井戸だ。
 井戸など田村は見なかったので、井戸の蓋など知らない。だから開けようにも、井戸などないのだ。しかし、あったのかもしれない。外なら分かるが、台所の薄暗い土間に井戸があったとしても、井戸だとは気付かなかったかもしれない。
 それを確かめようにも、もうその会社を辞めてしまい、その海の家に入ることはできない。海水浴場はその頃閉鎖されている。汚れがひどく、もう泳げなくなっていた時代の話だ。
 田村はその井戸のことを久しぶりに考えたのだが、きっと婆さんが何かを井戸に入れていたのかもしれない。貞子ではなく、西瓜でも冷やしていたのだろう。
 
   了


 


2017年8月26日

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