小説 川崎サイト

 

セミとりの少年

 
「夏場のことなのですが、大きな子供がいると遠目で見ていました」
「大きな子供ですか。健康優良児のような」
「短パンにランニング、そして麦わら帽。手には竿」
「魚釣りですか」
「場所は森です。それほど広くはありませんが、保存区域なのか、雑木林があります。公園じゃありません。車は入ってこられません。山ではなく岡の斜面のような場所です」
「竿を手に、じゃ昆虫採集とかセミとり」
「セミとりだと思います。竿の先に網が付いています。しかし、結構長いタイプで、魚釣りの竿だと思います」
「はい。じゃ、プロのセミとりですね」
「子供ですから、そこまでは」
「そうですねえ。セミなんて捕っても売れないでしょう。じゃ、カブトムシとか」
「この森にはいません」
「あ、そう」
「それで小道を歩いて行くと、徐々にその子に近付いた感じになりました。小道で立ち止まっているのです。日陰ができていますので、そこで休憩しているのか、セミを探しているのかは分かりませんが、それよりも」
「それよりも、何ですか」
「大きい子供じゃなく大人でした。しかもお爺さん」
「じゃ、近くにお孫さんでも」
「いません」
「あ、そう」
「私は、ぞっとしました」
「お年寄りがセミを捕っているだけでしょ」
「いや、そうじゃなく、そのままではないかと」
「何がそのままなのですか」
「遠い昔、セミとりに行った子供が、そのまま」
「はははは、それは有り得ませんよ。お腹もすくでしょ。日が暮れれば、帰るでしょ。そのまま何十年もセミとりだけをずっと続けられるわけがありません」
「当然、それは分かっています。しかし、どう見ても、子供のまま、ずっとセミとりだけをやっていたような雰囲気が」
「老人になり、隠居さんになり、子供時代を思い出して、子供に戻ってセミとりを再開しているんじゃないのですか」
「そうですねえ」
「夕方、赤とんぼを追ったまま、帰って来なかった子供もいますが、それは喩えです。子供の頃の夢をずっと追いかけている人の喩えです」
「はい、それは分かりますが、私が見たのは、具体的なセミとりです」
「じゃ、どう解釈したいのですか」
「セミとりをしていた子供が、気が付けばものすごく老いてしまったような」
「ほう」
「それで、唖然として、小道で立ち尽くしているのです」
「きっとお孫さんが近くにいるのでしょ。探しましたか」
「そこまでは」
「お爺さん、張り切ってセミとりを教えようと、そんなスタイルでお孫さんと出かけたのでしょ。その近くにいるはずですよ。それで全て解決です」
「しかし、私の受けた印象は、セミとりを続けて年老いてしまった自分に気付いたときの姿なのです」
「はいはい」
 
   了


 


2017年9月6日

小説 川崎サイト