小説 川崎サイト

 

自明なこと

 
 自明なことを意識し出すとおかしくなる。当たり前のことなので、考えなくてもいい。自明なことが多いほど楽だ。楽をしたいので、自明なものを増やしているのだろう。これは作為的ではなく、自然な省略だ。当然のこと、もう詮索しなくてもいいようなこと。分かりきったことがそれだが、ここにメスを入れるとおかしくなる。改めて考えてみなくてもいいことを、やるためだろう。これは連鎖反応を起こし、一つのことだけではなく、他のことにも伝染する。すると小さな子が「これ、何」と聞くようなものになり、面倒だろう。
 ただ、それら自明なことは最初は自明ではなかった。それが自明になっていくのは深く考察したからではなく、普通に成長していく過程で、いつの間にかマスターしていくのだろう。その人の環境にもよるが、いちいち考察しなくても、何となく分かってくるものだ。そうでないと不便なため。
 これを既成概念といい、自分で考えたわけではないが、そんなものだと思い、受け止め、それを取り込んでいる。ものすごく詮索し、調べ上げ、その上で納得したものではない。これも早く受け入れなければ不便なことになるし、不都合が生じるためだろう。しかし、当たり前のもの、既成概念が間違っていることもある。だが、それが流通しすぎると、ちょっとやそっとのことではひっくり返らない。ものにもよるが、嘘だと分かっていても、そのままにしている。その方がまだまだ都合がいいためだ。それは自分にとっても。そして、自分自身も似たようなことをしていたりする。
 つまり、嘘だと分かっていながら、当たり前のこととしてまだ離さない状態そのものもまた自明なことなのだ。
 嘘であることが分かって上で、という常識もある。この自明とは一種の仮想、仮のものだろう。とりあえずの仕来り、約束のようなもので、約束は破ってもいいというのも、また自明なことだ。それが高じれば約束とは破るためにある、となる。
 世の中は曖昧模糊とした状態では不便なので、とりあえず、何かを当てないといけない。これは個人でもそうだろう。
 自明なことにメスを入れると、新たなものが自明なこととして取って代わるが、それもまた取って代わられる。
 曖昧模糊としたものも自明なこととして受け取ると、結局何も分からないという話になる。やはりそれでは不便だろう。
 自明なことが自明でなくなることもあるが、それはいつの間にかそうなってしまったりする。誰が矢を射たわけでもなく、なし崩し的に気がつけば自明なことではなく、塗り替えられていたりする。
 誰が塗り替えたのかは分からない。だからなし崩しだ。自然に自明が崩れたようなものだろう。これは穏やかでいいかもしれない。ある日、突然ではないので。
 普通の人たちでも、自明なことでも、そうではないと感じている。だからそこは括弧付きで扱っているのだろう。
 
   了



2017年9月21日

小説 川崎サイト