小説 川崎サイト

 

小用

 
 玄関を開け、自転車を出し、さっと乗り、ペダルを踏んだ瞬間煙草を忘れてきたのではないかと下田は胸のポケットに手を当てたとき、隣の家と、その向こう側の家の間に見かけぬ老人が立っているのが見える。
 煙草はポケットに入れていたことを確認したので、次の注目ポイントはその老人。
 立っているのが不審というより不思議。隣の家か、その向こうか、さらに右側の奥にまだ家があり、そこに来ている人だろうか。しかし、そんな詮索前に濁って震えた声が先に来た。
「こんへんで……」と、後は聞き取れない。下田は「ええっ、何?」というような顔をすると、老人は同じ言葉を繰り返した。
「この辺でおしっこしていいですか。叱られるでしょうねえ」
 緊迫した状況のようだが、おしっこだ。しかし、本人にとってみれば抜き差しならぬ緊急ごとだろう。隣と、その隣の家の間に通路があり、さらにその左右に家がある。その先は突き当たり。
 下田もよく知っている人たちが住んでいる。その時間、誰がいるのか程度は何となく分かる。
「その辺でやったらいいですよ」
 その通路は私有地で、人の家の庭に近い。
 老人はその余地のようなところに入り込み、こちらを見ているので、誰も今は住んでいない家の壁を指さした。
 老人は許可が出たので、安心して用を足したはず。そのとき、下田は自転車で既にそこから離れていた。
 たまに道ばたに濡れた跡がある。そこだけ雨が降ったような。これは大型犬だろう。また溜め込んだ犬が我慢できず一気にやったような水たまりがある。しかし、犬ではなく、人間かもしれない。犬は分割する。匂いを残したりするため、全部出し切ると用が足せない。用を足しきることで、用が足せなくなる。だから一気にやらない。よほど辛抱し倒した犬なら別だが。
 さて、その老人の正体だが、手がかりは無精ひげで、あまり身なりはよくない。しかし外出着。そして紙袋を手にしていた。顔の彫りが深く、何処かの国の外務大臣に似ている。
 しかし、こんな町内にホームレスが入り込むようなことはないし、最近見かけない。紙袋の中身までは見ることができなかったが、チラシ配りかもしれない。チラシを配っているうちに催したのだろうか。この近くに公園はあるがトイレはない。一番近いトイレはコンビニ。または家などの工事中に持ち込まれる電話ボックスのようなトイレ程度。
 しかし、本当にチラシ配りだろうか。徘徊老人の線も考えられる。
 チラシ配りなら立ち止まらないはず。事情を聞けばそれなりのストーリーがあり、ああそれで、この町内に来ていたのかと、分かるはずだが、今となっては永久に謎。
 ただ、「ここでしても……」という言葉を発するときの外務大臣風の老人の情けなさそうな顔が目に焼き付いて、しばらく臭い思いをした。
 
   了

 




2017年9月27日

小説 川崎サイト