小説 川崎サイト

 

実体験

 
 映画で見た記憶も実際に体験した記憶も、似たようなものとして残るのだろうが、一寸した差がある。その差は何だろう。
 たとえば一度見た古い映画をもう一度見たとき、所々は覚えている。まったく忘れてしまっているシーンもあるし、印象に残らなかったため、初めて見るのに近い感じのときもある。こちらの方が楽しめたりするが。
 実際にあったことは、動画のように残らない。そんなデーターは残せないためだ。だから、比べようがない。もし実際に起こったことの全記憶が残っていたとすれば、比べられるかもしれないが。
 過去のものとなると、どちらも古いため、記憶に残るのは僅かかもしれないが、やはり実際にあったことの方が印象に残る。
 なぜなら映画の中のどの人物も自分ではないためだ。映画の中の人にも過去があり、その人を取り巻く色々なことがあるだろうが、それらは説明で描かれている程度。しかし、またはこんなことをしてきた人だろうという程度の設定は示される。しかし、それは見ている人のことではない。当たり前の話だ。またいくら感情移入しても、そのときだけで、また自分に戻ってしまう。
 ではなぜ実体験の方が印象に残るのか。それは体験とは何かを考えればいい。決して一面的ではなく、その人の何処かと繋がっている。関連する情報が含まれているのだ。テーブルの上にあるペン一つでも、映画の中のペンとでは馴染みが違うし、含有物が違う。中のインクのことではない。それを買ったときの背景などが含まれている。そしてそのペンで何を書いていたのかも。また、そのペンを使っていた時代なども含まれる。実体験はその人の目で見たもので、映画は監督やカメラマンが見せようとした絵だろう。自分の目で見ていないので、本当なら見るものも違ってくるはず。何処を写し、何処を写さなかったのかだけでも、自分の見方とは違うはず。
 だから印象を支える事柄が多くあるため、実体験の方が記憶に残りやすいのだが、これはそれらの体験を踏まえた上で、今もその記憶が生き続けているためかもしれない。映画はそこで終われば、終わるが、現実の実体験は尾を引きながら、それらを含めた上で進行中だ。今も実はそうなのだ。上映しなくても、それは回っているようなもの。敢えて思い出さなくても。体験とは身に染みつくということかもしれない。お蔵入りではなく。
 そして、見た映画も、その中に含まれる。これはどんな体験でもそうだが、忘れていることが多い。映画のようにそのままをまた見ることができないが。
 記憶としては曖昧で、忘れてしまっていても、体が覚えていることがある。体験とはまさに体を使っているのだろう。
 
   了



2017年11月15日

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