小説 川崎サイト

 

手がかり

 
 何の手がかりもない場合、手がかりに近いものを手がかりとする。ここでボタンの掛け違いを犯しているのだが、それが分かった上で先へと進む。なぜなら嘘でもいいから手がかりがあれば道ができるためだ。当然その道は間違っていることの方が多いが、何もないところをウロウロするよりもまし。とりあえず、あるとこへ向かい、動ける。これだけで十分だろう。動いていう間に真の手がかりと遭遇するかもしれない。だから立ち止まっているよりも、手がかりが見つけやすいだろう。
 しかし、それで見つけた手がかり。これは本物の場合であっても得たのは手がかりだけ。問題はその先だ。そしてその間にも色々な手がかりと遭遇し、手がかりだらけになるかもしれない。それだけ手がかりが多いと、あとが楽だろう。ただその手がかりの中にも真ではないものも含まれているので、手がかりは少ない方がいい。そうでないと可能性、選択肢ばかり増えて、逆に迷う。手がかりは目的に向かうときの道しるべのようなものだが、道しるべが多すぎると選択で迷う。手がかりは次の宿場へ行く道しるべ程度でいい。そしてその宿場へ行けば、そこでまた手がかりが得られ、次に行く場所が分かる。一本道の方が迷いはない。
 では間違った手がかりのまま進み、本当の手がかりに遭遇しなかった場合はどうなるのか。これは初期の目的とは違う世界に入り込む。これも悪くはない。最初の目的は手がかりがないので、もう諦めて、そのとき出てきた仮の手がかりのような、誤った手がかりの先へと進む。誤ってはいるが、それは最初の目的から見ればの話で、そのことが誤っているわけではない。だからテーマを変えれば、そちらが本筋になる。
 ただ、誤った手がかり、これは思い違いに近く、また想像に近い。そのため別のジャンルになってしまうだろう。
 手がかりは現実的で、具体的。そうでないと手がかりとは言えない。とある宿場町が手がかりだとすれば、存在が分からない、または、そういう宿場町があるだろうと仮定しての手がかりになるので、いくら探しても見つからない。しかし宿場町が欲しい。そうなると、どの宿場町でもいいような気がしてきて、とりあえずそれらしい宿場町へ行く。そこは手がかりとなる宿場町ではないのだが、そこではそこで、また何かがあるはず。
 手がかりは何かを差している。その場所へ行くと、また何かを差している手がかりを見つける。その繰り返しだと手がかりしか得られない。手がかりが手がかりの手がかりとなるだけ。
 これは手がかりの見つけ方がまずいのかもしれない。手がかりの手がかりではなく、目的とするところを差している手がかりを見落としているのだろう。
 手がかりばかりを追い続けていくと飽きてくる場合と、手がかりだけを探す方が楽しくなる場合もある。目的を果たすと、もう手がかりを探してウロウロすることはなくなる。しかし、その過程が楽しかった場合、下手に目的を果たさないで、ずっと旅を続けたいと思うかもしれない。
 また、間違った手がかりのまま、間違った世界に入り込んでいくのも乙なものだ。こちらもリアルには到達できない世界に踏み込んでいるためだ。しかし、初期の目的よりも、この間違った場所の方が得るものが多かったりする。予想外のものと遭遇し、初期の目的など色あせるほど、いいものと遭遇するかもしれない。
 また、そう簡単に目的を果たすのは、まだ早すぎるとか、もう少し遊んでみようと思うときもある。
 間違った手がかり、ボタンの掛け違い、その先に出てくる世界は思い違い、勘違いの世界だが、本当の世界が間違っているとは限らない。そしてこの世には存在しない想像の世界にしか、本当のものはなかったりしそうなので、間違っているとか間違っていないとかは、相対的なのだ。
 世界がめくるめく立ち現れ、わくわくわくするような世界。これこそ本当は存在しないバーチャルをやっているのかもしれない。ボタン二つ分ほどの掛け違いを犯したのだろう。
 
   了



2017年12月13日

小説 川崎サイト