小説 川崎サイト

 

一日一善

 
 一日一膳では茶碗に一杯なので腹が減るが、佐々木は一日一善を続けていた。しかし、よいことをしているはずだが、そうでないことも多くあり、また気付いていないが、逆に悪いことや、悪い結果へと導いていることもある。
 人が道を渡ろうとしていると、さっと車を止め、さあ、どうぞと合図するのはいいが、対抗車線から車が来ていると、これは事故になる。
 止まってくれた車のためにも、渡ろうとする。せっかくの善意を無駄にしたくない。右は大丈夫だが、道の中程に来たとき、左から車が迫っている。対向車線の車と息が合わなかったのだろう。または見えていない。
 大概はひやりとする程度だが、善意が善意ではなくなってしまう。これは結果で、対向車も止まってくれるか、いなければ、いいドライバーだ。
 これは悪い例だが、それに近いことを、佐々木もやっていたことに気付く。助けなくてもいいものを助け、物事がうやむやになったりとか、善意がただのお節介になったり、善意を受けた側が借りを感じ、それが負担になったり。いずれもいいことをしているのだが、そういう面もあるということに、佐々木は気付いた。
 だったら逆に一日一悪でもいいのではないかとまでは思わないが、どうも自己満足に近いことが分かりだした。そして一日一善を守るため、善意を使う場所を強引に探したりした。一善を果たせなければ、続かなかったとなる。そして、一日一善だけで、二善はなかったりする。この二善目こそ、本当に必要な手助けだったのかもしれないのだが、そこはスルーする。一日一善だから、一善のみ。
 これは佐々木に問題がある。職業がら、悪人のようなことをしないといけない。嫌われる役だ。仕事なので仕方がない。それで、バランスを取るため、一日一善を実行していたのだろう。
 親が死んでも泣かないが、人の善意が身に染み、泣くことがある。命中した善意だ。ただ、そういうとき、助けてくれた人は決して善意だとは思っていないかもしれない。
 また職業がら感謝され続けている人は、たまに悪いことをしてバランスを取るというわけではないが。
 正義の味方として、人を助け、立ち去ったその人は、助けた人とはもう二度と会いたくなかったりする。
 佐々木は逆に、助けた人と何度も会いたい。これは恩に着せるタイプで、何度も礼を言われるのが嬉しいのだろう。そして言ってもらいたい。
 一日一善を続けていた頃は、善が必要なことでもパスすることがあった。大きい目の善の力が必要で、負担が大きすぎるため。それで、こなせそうな善が来るまで待ち、安い目の善でノルマを果たした。
 そんなことが色々とあり、佐々木は一日一善をやめた。そのきっかけとなったのは「善の研究」という少し前の日本の哲学者の書いた本を読んでから。「禅の研究」ではないが、純粋さとは何かというような話。これ自体が禅問答のようなものだが、純粋感覚とか純粋経験というものに興味を持った。いったいどういう経験の仕方が純粋経験なのか、これは分からなかった。そして純粋理性。概念ではあるが、実際には存在しなのか、はたまた普通にやっていることなのかの判別が付かない。善の研究を読んでも、善とは何かが分からなかった。そういう本ではないのだろう。
 佐々木の一日一善には純粋さがない。決め事なのでやっていただけ。しかし感謝されると嬉しいので、続いたのだろう。そして気持ちがいい。これが果たして純粋経験だろうか。
 また純粋さの怖さもある。それで佐々木は、こういうことはうかつに手を出さない方がいいと思い、手を引いた。
 
   了



2017年12月30日

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