小説 川崎サイト

 

春待ち妖怪


「梅の蕾が膨らむ頃、真冬の底から抜け出す季節。立春もこのあたりかもしれん」
「年寄りの茶話のようですねえ」
「私も年寄りだからな」
 妖怪博士は寒いのに水を飲みながら担当編集者に言う。彼は自販機でホットミルクティーを二本買って訪問したのだが、博士は飲もうとしない。温かい飲み物が好きではないらしい。
「最近よく水を飲んでいますが」
「ああ、これか」博士は小さなグラスをまた手にする。
「何か意味でも」
「最後はお茶で締めるが、私は水がいい。どんなにいい料理を食べても、最後のお茶が一番旨い。さらに進めると、水になる」
「じゃ、今は水が一番美味しいと」
「茶の境地よりも水」
「はい」
「それよりも何の話をしていたのかを忘れた」
「梅の蕾が、とか言ってましたが」
「季節の話をしておったのではない」
「妖怪ですね」
「あの梅の蕾が妖しい」
「どんな妖怪ですか」
「バイドク」
「梅毒ですか。そのままですよ」
「その梅毒ではない。梅そのものの毒」
「じゃ、梅干しなんて毒の固まりじゃないですか」
「あれは梅の実。蕾ではない。それに毒は薬になる」
「じゃ、梅の花は毒花なのですか」
「梅というのはきついじゃろ」
「うちの婆ちゃんが歯が痛いとき、梅干しの皮を歯茎に付けてました」
「それよりもコメカミじゃろ」
「当然、頭が痛いときは、梅干しの皮を張り付けていました」
「だから、きついものが梅にはある」
「そうですか。しかし何処に妖怪が」
「蕾」
「蕾に?」
「梅の蕾が妖怪ではないぞ。梅の蕾に化けた妖怪がおる。これをバイドクという」
「初めて聞きました。妖怪辞典にもありません」
「これはまやかしでな」
「何の」
「先ほど言っただろ。梅の蕾が膨らむ頃、真冬の底から抜け出す頃だと」
「はい。それが何か」
「早蕾なのじゃ」
「はあ」
「まだその時期ではないのに、蕾が真っ赤になり、ぷっくりと膨らんでおる」
「何か、いやらしいですねえ」
「だからその手の春の妖怪でな。季節の春ではないぞ」
「はい」
「その妖怪を見たものは発情する」
「へー」
「梅の蕾が気になるのは、早く冬が去らないかなと思うから」
「早く春が来て欲しいわけですね」
「すぐには来んが、寒さの底から出るだけでも春を感じるもの。それで注意深く梅の枝を見る。すると、既に赤く膨らんでいるのがある。これが曲者でな。これは違うのだ。梅の蕾ではなく、実は妖怪」
「それがバイドクなのですか」
「梅の毒ではない。妖怪の毒」
「つまり回春妖怪ですね」
「そういうのは子供向きでは無理じゃろ」
「はい」
「じゃ、これ以上話さん」
 妖怪博士はまた水を飲む。
「腹を冷やしますよ。この寒いのに、水では」
「うむ」
「なぜ、水なのです」
「悪いものは水で流すのが一番」
「体毒でもあるのですか」
「そういうわけではないが、最近水が一番美味しく思えるようになった」
「毒は水に弱いということですね」
「そう言うことじゃ。だからこの妖怪バイドク、水に弱い。雨や雪にな。それで消える。そして一度それを見た人は、蕾が消えているのに気付く。誰かが千切ったのかと思う程度じゃが、もっとよく見れば、蕾が膨らんでおるのは、一つだけ。これが本物の蕾と妖怪バイドクの見分け方じゃ」
「しかし回春妖怪なら、いい妖怪じゃないですか」
「それなら、春待ち妖怪に直せばどうじゃ。これなら子供向きでもいけるだろ」
「はい、そうします」
 
   了



2018年2月12日

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