小説 川崎サイト

 

一人舞台


「毎日ここに来ているのですが、何か楽しいことはありませんか、いや、苦しいことでもよろしい、何かを習うというのは苦しいことでもありますが、やることがある。このやることがないのですよ。あなたのことは毎日見ていますが、いつも忙しそうにノートパソコンのキーを叩いておられる。そんなに熱中できることですか? 見れば私よりも若そうだが、既に退職した人でしょ」
 長いセリフだ。独白に近い。ナレーションかもしれない。
「何か楽しいことはありませんかな。一応この喫茶店に通うことが一日の仕事のようなものです。遠くはありません。自転車ですぐです。しかし来てもやることがない。新聞が置いてあるので、それを読みますがね。何の役にも立たない。社会のことが分かったりしても、もうあまり役立ちませんよ。昔はスポーツ新聞と経済新聞は必ず読んでいましたよ。野球と競馬、競艇に、競輪。これは職場で話題になりますからね。立ち回り先でもそうです。しかし、今はそんなもの知っていたからといって誰とも共有できません。だから、目を通すだけです」
 この人は一人芝居というか、誰もいないのに、そんなことを語っている。当然周囲に誰もいないときに限られる。客が入って来ると、セリフをやめる。
「家にいるときは本を読みます。ケチなので図書館で借ります。しかも何冊も。全部読めないので、そのまま返すこともあります。それをすると同じ本を何度も借りることになります。残念なのは一度読んだ本をまた借りてしまうことですね。読まないで返した本だと錯覚してね」
 ネタはいくらでも続くようだが、これは時間による。客が来ない間の時間、それが長いと、いつものネタの繰り返しではなく、その次のネタへと移る。これは非常に長い歌詞のようなもの。一番から五十番まであるような。しかし、毎回枕は同じ。それだけに語り方も洗練されいる。歌い込んだ曲のように。
「それであなたはパソコンで何をしておられるのですかな。ネットを見られているのですかな? 私も昔は職場でパソコンをやってましたよ。しかしウィルスに感染しましてねえ。それを元に戻すのに二ヶ月かかりました。同じことをもう一度やれと言われても、無理です。パソコンは怖いですよ」
 このあとスマートフォンに届いたメールを開け、入会費の請求を受けたとか、よくある話が続く。あとになるほどネタが弱くなり、本人も乗りが悪くなるようだ。
 
   了



2018年5月1日

小説 川崎サイト