小説 川崎サイト

 

人の世


 人の世があるのなら虫の世もある。昆虫などは集団で暮らし、社会がある。だから虫の世もある。しかし人が人の世を思うとき、思うことで人の世が出てくるが、虫は虫の世のことを思うだろうか。近くにいる虫について思うところはあるかもしれないが、どの程度の距離だろう。犬や猫、鳥あたりなら親や兄弟のことを思うかもしれない。そのとき、犬の世として、猫はただの動物扱いになるとは思えない。猫から見ての犬も。
 ちょっと違う生き物程度だろう。それが脅威なら逃げだし、特に危険がなければ一緒にいるかもしれない。水飲み場の動物など混ざり合っている。動物にとり、この水飲み場が広い世間かもしれない。
 人の世の、この世とは人々にまつわる色々なことという程度かもしれない。世の中というのは自分が発見しなくても生まれたときからあるものだが、親兄弟親族、そして親戚から近所の人、よく見かける人。ある場所へ行けばいるような人。店屋などがそうだし、道に出れば様々な不特定多数の人達が行き交っている。世の中には自分たち以外にも、同じように生きている人達がいることを知る。
 小さな子が保育園や幼稚園、さらに小学校へ行くと、それぞれの家や町内から同じように来ている他の家庭の子供達と遭遇する。決して小さい子は自分一人ではなく、大勢いることが分かる。
 世間にも範囲や括り方があり、また直接触れることができる世間や間接的にしか知ることができない世間もあるが、ぼんやりとではあるが大凡の状態は大人になれば分かるようになる。世間を見渡せるようになる。
 しかし世間ではなく、人の世となると、ちょっと情味が加わる。大昔のことでもよくなる。その時代も人の世として、今のようにあれこれのことがあったはず、それが変わらず続いていたりとか、人が生きて動いている限りあるべきことが起こり、それに伴う感情も今も昔も変わらないような、あるパターンができる。世の常とかが、そこで出て来る。
 人の世は何か哀れを誘うような印象があるのは、人の世云々というときの状態が、そういう情味のあるときが多いためかもしれない。別の言い方もあったはずだが。
 そして人の世ということで、これは個々の小さな話から世間一般のもっと広いところまで広げることで、普遍的なこと、よくあることとして諦めやすくしているのかもしれない。まあ、悪いこと哀しいことばかりが人の世ではないが、これは我々人類が、という風に言うと、細かい話から遠い話になり、個々のことも大海に流れて、いずれ雨になり、戻ってくるような所へと持ち込み、いわば自然に近いものではないかという意味で人の世が使われているのかもしれない。
「吉田君」
「はい」
「間違ってます」
「え」
「勢いは感じますが、比喩が間違っていますし、言葉の定義もできていません。これは駄目です」
「残念です。折角調子の良い論文ができたのに」
「それはただの作文で、感想程度。それでは世の中では通じません」
「まさに人の世ですね」
 
   了



2018年5月19日

小説 川崎サイト