小説 川崎サイト

 

本気モード


 吉見はあまり本気になりたくなかった。何事も軽く、いつでも身を引ける距離で、そして体重を掛けないで、遊び半分に。
 これは子供の頃、遊んでいて、本気になってやっていると、そんなところで本気を出している自分が恥ずかしかった。本気を出すとは実力の全てを吐き出して、全身全霊で取り込むこと。
 また真剣にやることも恥ずかしいとされていた。実際には推奨であり、褒められるべきことだろう。だが、褒められることを恥とするような風潮があった。かっこ悪いのだ。褒められると。
 必死になって褒められる。このパターンが禁じ手になっていた時期がある。遊び半分で軽くやっても勝てる。これがかっこ良かったのだ。
 しかし、そんなことでは世の中に出たときは追いつかないので、誰もが本気を出さざるを得ない。だから真剣に働くことは恥ずかしいことをやっているように見えたが、生きるためには仕方がない。精一杯やっても追いつかないのだから、ケチをして手を抜くような余裕はなかったと言える。
 何事も真剣にやった方が楽しいこともあるし、そちらの方が充実するはずなのだが、そこに旨味を見出さない人もいる。
 真剣にやるのが恥ずかしい。真面目に取り組むのが恥ずかしい。これは何だろう。
 吉見は中堅になった頃、そろそろ先が見えてきたので、いくら頑張っても、これ以上出世しないし、収入も劇的に増えないことが分かり、保守タイプに切り替えた。省エネタイプ。できるだけ疲れないように、力を発揮しないようにと努めた。これは推奨されないだろう。しかし、部下にはきつく指導した。何事も真摯に、真面目にやるようにと。
 これを言い出す時期は、もう本人はその気がなくなっているとき。自分には甘く、人には厳しくなっていくのだが、本気で説教したり、部下と向かい合うようなことはなかった。本気で言っていないので、本気で接してもいなかった。
 本気を出しても仕方がない。それが最近の傾向となったが、別のところでは本気になった。これは本気を出す必要もないことで本気になるという、どこかねじれているが、仕事以外のことでは本気が出せた。しかし、この本気は、本気を出しているふりに近い。本気になることは恥ずかしいこと。その恥ずかしいことをやっていますという感じを露骨に出したかったのだろう。
 本気を出したい。しかし仕事方面では出す気がしない。本当は出したいのだろう。恥ずかしいことをしたいのだ。
 そして、何処までが仮面で、何処までが肉面なのかが曖昧になってしまった。
 しかし、そういうのは顔には出ないようで、悪事を働き続けた人の顔が意外と清々しい顔だったりするし、善行を重ねた良い人が悪人ズラをしていたりする。
 後ろ姿、肩や背中にその人が人生が出ると言われているが、これも嘘。昔の武人のように体を鍛えるのが商売なら、当然肩にも肉が乗るが、その程度の物理的な見え方しかしない。
 当然生まれたときから撫で方の人は、ずっと優しいか、淋しそうな人に見られることになるが、撫で肩のボクサーなどは強烈なフックパンチを持っていたりして、弱々しいわけではない。
 吉見は今、いったい自分はどういう状態なのかと考えるのだが、以前ほどには気にしなくなった。これを年の功というのだろうか。単に神経が緩くなっただけかもしれない。
 
   了



 


2018年5月26日

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