小説 川崎サイト

 

無心


「つい昨日のように思うのですが、あれから長い年月が立ったのですね」
「はい、あの頃はまだ若き青年。前途悠々とまではいきませんが、夢がありましたなあ。いや、夢が見られたのでしょう」
「あなたはその夢を果たされたはずです。私たちの中では最も世に出た人だ」
「それもこれも昔の話。今じゃただの凡人。平凡な人間です」
「そうは見えませんがな。まあ、あなたの良い時代を知っているので、そう思うのでしょうかねえ」
「そうですよ。一時は成功しましたが、長くは続きませんでした。今は振り出しに戻ったようなもの。一からやり直す感じですが、もう時間がない。若い頃の一年は詰まっていますが、年をとるとスカスカです。密度が違います」
「それでいいんじゃありませんか。あなたほどの成功者なら、もう思い残すこともないでしょ。やることは全部おやりになったと思いますがね。少なくとも私たちの何十倍ものことを」
「しかし、結果が悪い」
「いや、いい結果をお出しになった」
「ですが、今はそれとは関係のないところにいます。全て失ったようなものですから」
「何も残っていないのですかな」
「そうです。だからあなたが羨ましい」
「それだけのことを言いに来られたのですか。他に用事があったはずですが」
「久しぶりに若い頃の仲間の顔が見たくなっただけです」
「そうですねえ、だから随分会っていない。あなたの消息はよく耳にしましたが、もう私たちとは別の世界に行ってしまわれた。だから縁が切れたようなものでしたよ」
「しかし、立花君、君は一度私を訪ねて来たと聞きましたが」
「ああ、あの頃一度だけね。でもお会いできなかった」
「それは失礼しました」
「いえいえ、もう昔のことなので、そんなことがあったことさえ忘れていたほどですよ。確かに行きました。大磯君、君を訪ねてね」
「どんな用件だったのでしょう」
「おそらく」
「おそらく?」
「はい、おそらく、今日あなたが訪ねてき来たのと同じ内容だと思われます」
「そうお思いか」
「違いますか?」
「おそらく、あっております」
「しかし、私どもはごらんの通りの暮らしぶり、何ともなりません」
「そうですか」
「私があなたを訪ねたとき、あなたは何とかなったはず。しかし会うことさえできませんでした。あのとき、非常に困っていたので、恥を忍んで、行ったのですよ」
「失礼しました。当時は忙しくて」
「もし」
「はい、何ですか」
「私にその余裕があったとしても」
「しても?」
「絶対にお貸ししません」
 大磯は少し怖い顔をしたが、すぐに苦笑いし、立ち去った。
 
   了


2018年6月14日

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