小説 川崎サイト

 

幽霊


 年老いたマスターやママが亡くなってからも、まだ営業している喫茶店がある。これは「出る」とされている。お冷やとおしぼりを持ってくるのだが、亡くなったことを知らないとか、忘れていたとかの場合、特に「出た」とは感じない。店の誰かが注文を聞きに来たのかと思うだろう。
 しかし「出る」のは店の人だけではない。客も出る。年寄りの客で、既に亡くなっているのだが、コーヒーを飲みに来る。これも知らなければ分からないだろう。
 これもまた客の例だが、定休日に出る。店は閉まっているのだが、そのときに常連だった客が集っている。中には店の人もいる。いずれもこの世の者ではない。
 シャッターがなく、ガラス張りで中がよく見える店なら、恐ろしいだろう。丸見え。
 定休日でなくても、営業時間が過ぎてから出る店もある。外からも見える店なら、薄暗いところに人がびっしりと、しかもぼんやりと静かに座っている人々が見えるだろう。もう人ではないが。
 喫茶店でそれがあるのなら飲み屋にもあるし、散髪屋や美容院、当然病院や映画館、ションピングモールでもあるだろう。いずれも年寄りで、しかも行きつけの場所に限られる。ほぼ習慣化している。その習慣がなくなってもまだ続いていたりするような話だが、これには目撃者がいないと、出たかどうかは分からない。
 ただ、同席した幽霊同士はどうだろう。幽霊が出たと思う幽霊もいるかもしれない。それが幽霊ではないと思う幽霊もいるし、他の幽霊など見えない幽霊もいるだろう。
 喫茶店などで幽霊同士が会話をする場合、それなりに客としての序列ができているため、そのルールはそのまま残っているはず。ただし、常連客以外の幽霊が出た場合、視線をすべてそちらに当てるかもしれない。現役時代と同じように。
 では飛び込み客、一見客の幽霊は何だろう。習慣化していないのだから、出にくいはず。しかし、喫茶店があると入りたくなる人だったのかもしれない。
 映画館などは往事の客が幽霊として来ているのなら、超満員だろう。しかし、出たくても全盛時代の映画館など潰れて、もうない。
 これは歩道でも、ハイキングコースでもあるはず。
 前を歩いている人がこの世の人であるとは限らず、隣のテーブルにいる客も、本当はもう亡くなっていたりする。
 幽霊というものを入れると、ちょっと変わった風景になる。
 
   了
 

 


2018年8月1日

小説 川崎サイト