小説 川崎サイト

 

見知っている人達


 久しく見ない人がいる。それを思い出すタイミングは様々だが、一度そのモードに入ると、久しく見ない人々を次々と思い出す。ただ、この場合、知っている人ではない。なぜなら思い出したくないような人などがいるからだ。これは久しくではなく永遠に見かけない方が好ましかったりする。
 久しく見ない人で思い出そうとしているのは、見るだけの人。通りすがりの人や、関係は何もない人。そのため、見かけようと見かけまいと困るような人達ではない。普段は忘れているし、思い出したときだけ浮かんでくる人々。これは通行人なども含まれるので、結構数は多い。
 見かけるが接触はない。何処の誰だかは分からないが、大凡の察しは付く。実はもの凄い人だったということは先ずないはずだが、これは確かめていないので分からない。確率の問題で、よく見かける人、たまに見かける人が全てもの凄い人であるとは考えにくい。だから、中にはそんな人も混ざっているかもしれないが、何に対してもの凄い人なのかにもよる。興味が無かったり、価値が分からなければもの凄い人とは思わない。
 そういう見るだけ、見ただけの人は話としては短く、見かけないという程度で終わる。これが知っている人なら、いろいろと思い出すこともあり、話が長くなる。
 当然それらを見かける場に出て行かなくなれば、もう遭遇することもないだろう。これは時間帯だけでもそうなる。同じ場でも、その時間、そこに来ているとか、通っている人でないと、時間が変われば見かけることはない。そして別の時間帯、別の場所で、その人を発見したときは驚く。しかし、最初は分からない。場所と時間の中での印象しかないため、同じ造りの顔かたちでも、別人のように見えたりする。
 そして見ているかどうかもある。いつも見えるような距離にいる人なのに見ていないことがある。視界に入っていたはずで、目には入っているのだが、何も残さない人だろう。印象が薄い人ではなく、気に留めないだけ。
 これはお互いによく見かける人ではなく、一方的だ。そして見ている人も見られているが、見ていない人からも見られている。そんな人に見られていたのかと思うほど。
 場合によっては複数の場所で、同じ人から見られていたりする。よく見ると、何処かで見た覚えはある。視界に入っていたはずなので。
 合っているはず、見ているはずなのに見ていない。これはグループの人で起こりやすい。そのグループ一つで一人。だから、そのグループから抜け出して、単独ですれ違っても分からない。
 そういった関係がほとんどない人達の方が気楽に観察できる。絡みがないためだろう。
 しかし、近い距離のところにいる人と、何かの拍子で絡むことがある。そして初めて声を聞く。こんな音を出す人だったのかと、驚いたりする。
 顔程度は知っている人だが、最近見かけない人がいても、気にしてもいいし気にしなくてもいい。何処か人間一般を見ているようなもの。というか動物を見ているようなものかもしれない。
 
   了

 


2018年9月21日

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