小説 川崎サイト

 

何もない日々


 日頃退屈なほど何もないような暮らしぶりの竹中だが、ここ最近出掛ける用事が増えた。それが重なったりする。すると何もないような真っ白なスケジュール表に書き込めるようになるのだが、何もない日が三十日続いていたのが、一つ加わることで、十日前後の連続性になる。何もないことが連続しているのだが、真っ白な連続では出来事が起こらないわけなので、果たして連続した出来事だと言えないかもしれない。出来事がないため。
 買い物などで少し遠くへ出掛けるとか、ちょっと長い目の散歩のため、遠出するとかは竹中はそれほど問題ではないようで、それらはフリー時間。フリーな日々の中にある。
 だから竹中にとってややこしいのは人と会う用事。不特定多数の第三者からの視点ではなく、知っている人からの視線が面倒。店員も客を読むが、その視線はあまり気にならない。それ以上の関係ではないため。集金に来た人もそうだ。
 ここ最近竹中は人と会うことが増えた。怖い相手ではないし、ややこしい人は知っている人でも合わないようにしている。
 それでそんな機会が多くなり、スケジュール帳が本当にいるほどになった。これはどうした風の吹き回しか、巡り合わせかは分からない。ただの偶然だろう。そのため、何もない日々の連続性が短くなった。それでも一週間や十日ほどは何もない日々となっているが、ゆっくり過ごせるのはあと数日かと思うと、それらの日々が貴重になる。
 しかし、出掛けていろいろなことをやっているとき、それはそれなりに楽しい。ここがよく分からない。楽しいのなら、そういう機会が多い方が好ましいはず。ところがそうでもないようで、何もない日々の連続性の中での退屈さ加減がいいようだ。これはいいも悪いもなく、大したことは起こらないのだから。
 この何も起こらないというのがいいのだろう。
 そして出掛けた翌日はほっとする。いつものフリーな時間の過ごし方ができるため。これは自由時間だが、それほど自由なことはしていない。何をしてもかまわないのだが、いつもの過ごし方を繰り返すだけ。自由はあるが使わない。それもまた自由だ。
 何もない退屈な日々がもの凄く長く続くと、発酵してくるものがある。
 同じことの繰り返しの中に違いが生まれる。こういう何もしていない状態が長く続かないとこれは見えてこない。
 悟りの境地とは、静かになることかもしれない。それには何もしないことがその近道。
 しかしそれではやはり退屈だろう。
 
 
    了





2018年10月22日

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