小説 川崎サイト

 

ゾンビ記憶


 人に歴史あり。そのため歴史秘話もあるし、歴史から抹殺したこともある。しかし個人の歴史。世間に対して示すのは履歴。これは歴史的出来事ではなく、職歴だろうか。当然学歴が分かりやすい。卒業してからの職業が「がたろう」では分かりにくい。河川埋没物清掃員。まあドブさらいをする人だが、この話は落語「代書屋」で有名。
 自分のことなのに知らない歴史がある。それは実際にあったことで、体験したことなのに。その間の記憶が飛んでいるわけではない。忘れたのか、覚えていないのだ。
 それはうんと幼い子供の頃だろう。物心が付かない頃。当然生まれた頃の記憶などないはず。心はあるが、物心がない。この「もの」というのが興味深い。
「物心が付くか付かない頃」という言い方がある。ぎりぎり大人になってからでも思い出せる。
 人に歴史ありと言うが、本人が体験しているはずなのに知らないこともある。幼少の出来事なら親が話してくれるので、聞いた話を自分の記憶に書き加える。
 この物心が付かない頃の体験が、その人の性格などをかなり決定づけているらしい。これは生まれたときの環境が大きい。しかし、ここで大半の方向性のようなものが決まってしまうのだろう。これは文化もそうだし、言語も。
「記憶にございません」で逃げ切ろうとする人がいる。それを批判するが批判している人も結構やっているのだ。それが社会的なことでなくても。都合の悪いことは忘れるようにできている。
 個人史をたどるのは、何らかの目的がある。それを懐かしんで楽しむとかもあるが、過ぎ去った過去、もうそこへ戻れないだけに、逆に楽しかった時期を思い出したくない場合もある。失ったものになっていると、これは悲しい。
「失った過去が蘇る」などと言うのもある。何をなくしたのか知らないが、大事なものに違いない。当然敢えて蘇らせるのだから役に立つのだろう。
 まだ失ってはいないが、忘れてしまっているような事柄もある。そういうのを、今、蘇らせれば非常に都合がよい場合もある。しかし半ばゾンビ化しているかもしれないが。
 昔々の記憶、個人の歴史でも忘れかけていたことの中に宝物があるかもしれないが、化け物を引っ張り出すこともある。
 
   了 
 


2018年11月4日

小説 川崎サイト